ヤンキーとセレブの日本史Vol.16 江戸時代その1
関ケ原の戦いで勝ったことで、徳川家康による支配が始まります。
江戸時代は約250年続く、安定した時代です。
江戸幕府が長く続いた理由は、過去の政権の失敗を回避する策を仕組みとしてしっかり組み込んだことにありました。
江戸という土地
家康は、江戸に本拠地を移します。
関東平野は日本で一番広い平地ですが、江戸は当時は不毛の地でした。
利根川の水が流れ込んできて、水はけが悪い湿地帯で、雨が降ると数日水浸しになり農業ができません。昔は、関西から東北に行くには関東を通らずに鎌倉を経由して、千葉から船に乗って北上したようで、マジで何もない不毛の地でした。
家康は秀吉に関東の土地を与えられていたのですが(厄介払いという意味で秀吉は遠くに家康を飛ばしておきたかったのです)、関ケ原の戦いのその前から、利根川の工事を行い、流れを東京ではなく千葉の銚子の方に行くように変えていました。
関西は昔から人が多く住んでいたので、使えそうな木は伐採されまくっていましたが、関東平野には木がたくさん生えており、建材にも困りません。江戸は水はけさえよくすればポテンシャルの高い土地でした。
家康はそこを本拠地にして、征夷大将軍になり幕府を開くことになります。
子分への褒美と歯向かったやつへケジメとしてのシマの分配
家康は、関ケ原の戦いのケジメをしっかりつけました。
信頼できる子分、関ケ原で活躍したやつ、勝った後に子分になってきたやつ、関ケ原で歯向かってきたやつ、ちゃんとケジメをつけなければなりません。
まずは、西軍(豊臣軍)のメンバーだったやつにはきっちりとケジメを取らせます。改易といって組を潰したり、減封といってシマを減らしたりしました。特に罪が重かった奴らはぶっ殺しました。
反対に関ケ原の抗争で手柄をあげた子分には豊臣組の組長達からぶんどったシマを与えました。
豊臣組から寝返って東軍に入っていた奴らもシマをもらいました。活躍や今後の関係を重視してシマを分け与えたので、大量のシマを手に入れた組もありました。ただし、広いけれど遠い田舎の方のシマです。重要なシマは、家康の血縁と昔からついてきた信頼できる子分に分け与えました。
更に特別に重要なシマは徳川本家の直轄にしました。江戸近辺、京都、大阪などの大都市、金が取れる佐渡ヶ島、銀が取れる石見、貿易の玄関口の長崎などです。大きなシノギになるところは全部本家が持っていきました。
そして、各地の子分たちのランクもつくりました。家康は子分たちを3つの種類に分けます。
親藩大名:徳川家の血縁
譜代大名:関ケ原の戦いの前から子分だった信頼できるやつ
外様大名:関ケ原の戦いの前後に子分になったやつ
譜代は一番信用できるずっと一緒にいた子分たちです。幕府本家の役職につけるのもこいつらの組だけです。外様は元豊臣側だった過去があるので、関ケ原の戦いでの褒美はたくさんあげても、遠くのシマに置き、本家の役所も与えないという扱いです。手柄にはしっかり褒美を与えるが、本家の大事なことを決める仲間には加えません。
豊臣潰し
しかし、征夷大将軍になったとは言え、まだ抗争は続きます。
大阪城には豊臣一家がまだいます。表立って反抗はしてきませんが、いつかは権力を取り戻すつもりでいるのも家康は感じ取っています。そこに冷や飯をくらったヤンキーたちが乗ってきたら、面倒なことになります。関西ではまだ豊臣の人気が高いのです。
そこで、家康は因縁をつけて豊臣組にカチコミをかけることになります。関ケ原の戦いから14年後のことです。
徳川組は強く、豊臣側は手打ちを申し入れました。家康は城の外堀をうめさせてくれるなら手打ちをしてやると言い、豊臣はそれを飲みます。ところが、家康は中の堀まで埋めてしまいます。堀を埋められたら城の防御力は無力化します。
ヤクザと妥協した約束なんてするもんではありません。
怒った豊臣組は再度抗争を始めますが、堀が埋められた城では勝ち目はなく、豊臣は滅びます。
家康の統治
江戸時代は、260年安定して続いた時代です。
鎌倉幕府や室町幕府は子分に実質の権力が奪われつつもダラダラ続きましたが、徳川幕府は最後まで徳川家が将軍として強い力を持っていました。それは個人の資質ではなく、仕組みとして長続きするようにできていたからです。その仕組みは初期に家康によって作られます。
昔の組が潰れた理由
家康の絵図を見る前に、以前の政権がなんで潰れたかおさらいしてみましょう。
下記は、室町までの政権が潰れた構造的な理由と、どうしていれば回避できたかの改善策です。
結論としては、下記の方策をきちんと行うことが政権を長続きさせることになります。江戸幕府は、これを全部実現しました。
自分たちはヤンキーであり、暴力は手放さない
地方のことは地方に任せて、その手綱は握る
親分子分の関係は、個人同士の結びつきではなく徳川家自体と作る
子分の力を継続的に削ぐ、同盟はつくらせない
ヤンキーとしてのアイデンティティ
暴力は統治のための最も大切な道具です。
ところが、平安貴族、鎌倉幕府、室町幕府と、この国では一度権力を取ってしまうと痛くて野蛮な暴力を離れてセレブ化しようとします。子孫はヤンキー文化ではなく、セレブの方に交わろうとするのです。鎌倉幕府の三代将軍源実朝はセレブと一緒にポエムを詠んでいましたし、室町幕府の八代将軍足利義政は政治もせずに文化人を気取っていました。
ヤンキーの世界では怖くない親分のことなんか誰も尊敬しないので、最後には暴力を持った他のヤンキーにナメられて、子分たちにも見捨てられます。
徳川幕府はセレブの影響を受けにくい江戸に本拠地を構え、自分たちをヤンキーの政権として定義づけ、身分制度を作ることで、自分たちは特別であり、ヤンキーらしく生きることを美徳とする価値観を作りました。
江戸時代には抗争はほとんどなくなっており、ヤンキー武士といえども日々の仕事は事務官なので、常に自分たちはヤンキーだと意識する仕掛けがないと、徐々にセレブ化していってしまいます。
ヤンキー武士は人口の10%程度で、刀を持つことや、パンピーに舐められたらぶっ殺してもいいよ権(切り捨て御免)など暴力にまつわる特権を持たされて、自分たちは暴力を持つ特別な存在という意識が作られていました。
加えて、ヤンキーの倫理観として、上の言うことを聞くことは絶対という風潮を作ります。幕府は中国で生まれた儒学から枝分かれした「朱子学」という学問を奨励します。朱子学の中には親分の心構えを説く部分があるのですが、ヤンキー政権はこれを曲解して、親分の言うことに従うのがヤンキーの美徳とします。これはヤンキーの本能にも合う話です。日本でも世界でも昔でも現代でも、ヤンキーの世界では上の言うことは絶対です。しかし、それは美徳だからやっているというのではなく、上が怖いから当然そうなるだけの話です。
逆に言うと、子分に怖いと思われない人は親分になれないのです。ただ、それを認めてしまうと下剋上になってしまい、安定した統治はできません。だから、幕府はヤンキーの性質をうまく利用しつつ、朱子学を曲解して、親分の言うことを子分が聞くのはヤンキーの美徳(忠義)としました。親分の器量に関わらず、下剋上がおきないように安定的な統治をできる文化を作ったのです。
武士道というフィクション
武士道という概念は、明治時代に新渡戸稲造(昔の5千円札のおっさん)により作られました。明治初期の世界では欧米のみが先進国で、日本はそこと対等な立場にならないと、不平等な条約など飲まされ続けるので、強いだけではなく、法律や政治のシステムなど欧米基準でちゃんとした国になろうとしていました。
欧米人は自分たちが優れているのはキリスト教的な倫理観をもっているからだと勘違いしていて、キリスト教国ではないのに強い国になりつつある日本を不思議に思っていました。そこで新渡戸稲造は日本には武士道があり、それが国民の倫理観を高めているというでっちあげをしました。そうでも言わないと欧米人が納得しないですから。「武士道」は最初英語で出版されましたが、その後日本にも入ってきて、なんか日本人も武士道は日本古来の伝統と勘違いするようになりました。
確かにヤンキーは名誉を重んじますが、戦国時代以前の名誉は勝ってこそ得られるものであり、「主君がー」とか、「品行方正がー」とかが名誉になるという話は江戸時代に作られたものです。名誉の中身が江戸時代で書き換えられました。
実際に命のやり取りをしなくていいから、かっこいいことを言えるのです。命の危険があったらきれいごとなんか言ってられません。
剣術も同じです。人をぶっ殺す技術だった剣術も抗争がなくなったことでマイルド化しました。1700年代前半には危なくない竹刀をつかった剣術が生まれてきました。戦場で殺し合いをしたことがない人間が剣を教える時代になっており、精神性が重視され、見栄えのかっこいい技や派手な奥義が開発される「華法化」という現象が起きてきます。
しかし、この武士道には現代のヤンキー精神と類似性もあります。もしかすると根底ではヤンキー文化も武士道の影響を受けているかもしれません。そう考えるとヤンキーは現代の侍です。
実際には暴力で飯を食っていないにも関わらず、江戸時代の武士は戦士である武士であることにアイデンティティを置いています。これは、ある種暴力のアマチュアであると言えます。
現代日本のヤンキー精神の最も大きな特徴もアマチュアリズムです。暴走族は経済活動ではないですし、族をやっていて将来プロ(反社)を目指しているという者はほとんどいません。部活で野球をやっている人の中でもプロになるのはほんの一握りで、大半がプロを目指していないのと同じようなものです。
しかし、プロよりもアマチュアが劣っているとは限りません。アマチュアであるからこそ、損得関係なく自分の誇りを追求できるのです。
プロは経済合理的でなければ暴力を使いませんが、現代ヤンキーはアマチュアだからこそ経済合理性のない無駄なケンカや捕まるリスクが高いだけの暴走をするのです。
戦国時代以前の武士は、食べていくため、自分たちの身を守るためという合理性の上で暴力を扱っている暴力のプロでした。しかし、江戸時代の武士は暴力で飯を食っていません。給料は城の事務仕事でもらっています。だから暴力で自己利益を最大化できる環境がなく、どんな手を使ってでも勝つことよりも、かっこいい精神性の方が重視されるのです。なりふり構わない暴力で勝つよりも、あいつは立派な武士だと皆に尊敬されたほうが得な社会になったということです。
地方のことは地方に任せる
徳川の統治は現代の暴力団と一緒です。
本家があって、そこから盃をもらった二次団体としての各地の大名がいます。各地の大名は自分のシマを自分で統治しますが、本家の言うことには従うという構造になっています。
セレブは自分たちの身内を地方に派遣して、地元の奴らを使って政治をさせます。しかし、田舎に来たセレブは地元のことを考えずに、アガリを掠め取って、中央に貢ぎ、戻ってからよいポジションを狙うことばかり考えます。
そんなセレブ式にしたら地方が発展しないどころか、荒れてまた別のヤクザ勢力が出てきて徳川に楯突いてくる可能性もあります。
地域のことにちゃんと責任をもって取り組む人が治めたほうが結果としてアガリも大きくなりますし、組全体にとってもよいことなのです。
徳川幕府では、地方のことはそこの組長に任せる形を取ります。地方の組のことを藩といい、本家の幕府がその上にたつ幕藩体制という仕組みです。
幕府は、地方の組が勝手なことができないように後述のような仕掛けを作ります。
親分子分の関係は、個人同士の結びつきではなく徳川家自体と作る
家康は征夷大将軍になった後、早々に引退し、息子の秀忠に将軍を譲ります。
これは、徳川家の人間が組長を継いでいくこと、そして誰が組長になっても同じように言うことを聞けよということを示す意味です。
家康は二代目の秀忠が将軍になった後も実質の権力を握り、後ろで絵図を描いて秀忠を立派な組長になるように支えます。
本家に逆らう奴が出ないように、大名同士で勝手に同盟を結んだり、親子盃を交わしたりしないようにし、徳川家だけが唯一絶対の組長であるようにしています。
子分を扱いやすいヤンキーにするための武家諸法度
ヤンキーであり続けるということは、暴力を手放さないということです。
各地の大名もヤンキーなので暴力を持っています。
各地の大名に暴力を手放させると、他のヤクザが出てきたときに乗っ取られてしまう可能性があります。
しかし、子分に自由に暴力を持たせると室町時代のようになりかねません。
武士というヤンキーであることと、暴力を過剰に溜め込まないようにすることを両立させるために家康は「武家諸法度」という組のルールを定めます。出したのは二代目の秀忠ですが、裏で作ったのは家康です。
武家諸法度には、ヤンキーとしての生き様と、過剰な暴力を溜め込まないようにする制限が書き込まれています。言い換えると、大名を扱いやすいヤンキーにするための仕組みです。
一番目に「文武両道に励むこと」とか書かれていますが、暴走族などのごく一般的なヤンキーは「勉強も暴走も頑張ろう!」なんて言いません。この時点で、幕府の目指すヤンキー武士の姿とは、BARI✕2なヤンキーではなく、なんちゃってヤンキーなんです。
次も「酒に溺れ遊び呆けるな」ですし、10番目は「身分を弁えた服飾をすること」。12番目は「質素倹約」です。どれもヤンキーらしくありません。
ここに書かれているのは、幕府にとって都合のよいヤンキーの生き様です。平安時代から戦国時代までに暴力を使って好き勝手してきた伝統的な武士の姿を、抗争がない平和な世で事務仕事をするのに適した形に変えたのです。
それとあわせて、過剰な暴力を溜め込まない。本家に歯向かわないためのルールも決められています。
この時代の同盟は、子ども同士の結婚を通じて行われますので、幕府は大名間で勝手に結婚することは禁止します。
また、城の修理も勝手にできないように届出制にしました。勝手に防御力を高めて攻めにくくされても困りますので。
隣国で怪しいことがあったときのチクリも義務付けています。
また、厳密なルールは三代将軍家光のときに定められますが、参勤交代という親分に挨拶に来る仕組みも組み込まれています。
こうして、家康が描いた絵図通りに事が運び、よくもわるくも変化することない太平の世が続くようになるのです。
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