ヤンキーとセレブの日本史 Vol.9 鎌倉時代 その3
モンゴル襲来
鎌倉幕府がようやく安定してきた頃、外国からのカチコミがやってきました。元寇と言われるその抗争のあらすじは下記のとおりです。
このあらすじはツッコミどころ満載です。元寇で何が起きたかは色々な説が多く、何が正しいのかはまだ答えが出ていないところも多いようです。
「神風」に関しても、昔は日本は神の国だから神風が吹いて外国の軍勢から守ってもらえる説がまことしやかに語られており、第2次世界大戦中にはその説が都合よく使われた歴史もありました。
私はヤンキー研究家なので古文書も読めませんし、歴史の研究者の中でも意見が分かれている膨大な研究をすべて見て答えを出すこともできません。
なので、ヤンキーだったらどう考えるかという視点で元寇がどんな事件だったか見てみたいと思います。
モンゴルからの遣いをシカトする
モンゴルが世界で勢力を拡大していて、日本にも何度も遣いを出してきて、鎌倉幕府がそれをガン無視したのは事実のようです。
しかし、モンゴルのような大国がわざわざ海を渡って小さな島国にまでちょっかいを出してきた動機は色々な説があります。
まだ中国で抵抗していた南宋への支援を防止するため
日本には金がたくさんあるから
日本では火薬の原料となる硫黄がたくさん取れるから
そもそも本気でケンカするつもりはなくて、一言子分になると言えば大したことはするつもりもなかった
など諸説あるようです。
そして、鎌倉幕府の対応に関しても、ヤンキーばかりで国際情勢に疎かったので、元の強さを知らずに無礼なことをして元を怒らせたという説もあります。
クビライ・カーンからの手紙
元からの手紙も「丁寧に書いてあり、最初はケンカするつもりもなかった」という説と「最初から高圧的だった」という説があるようです。
ちょっと長いですが、Wikipediaにあった元の皇帝クビライ・カーン(フビライ・ハン)からの手紙の現代語訳を引用します。(長いので読み飛ばしてもOKです)
「小国の君主は国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである」、「兵を用いることは誰が好もうか」というところは高圧的です。
しかし、世界各地で戦争をしまくっているモンゴルにしては、「願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結びもって互いに親睦を深めたい。」と言っていることや、「不宣」という親しい友人に宛てた手紙に書かれる結びの言を入れるのは友好的であるともとれます。
ヤンキーの視点からクビライ・カーン手紙を読む
まず、そもそもとしてヤンキーの世界では強い人への挨拶は絶対です。挨拶に来ないだけでアウトです。その時点でヤンキーは怒ります。この手紙からも挨拶に来ないことに元は不快感を示しているのが読み取れます。
しかし、ヤンキーでも大物になるほどに、いきなり見ず知らずのやつに喧嘩腰で話をすることはありません。いきなり怒鳴ってくるのは三下のやることです。大物は自分の器の大きさを見せなければならないので、寛大に振る舞う必要があります。ここでもこのように書いてあります。
これは、「お前はまだ知らないだけかもしれないから、わざわざ遣いをやって教えてあげるよ」と言っています。これは言い換えると「知らなかったっていうことだよな?それなら許してやるから来いよ」と言って、言い訳を予め用意してあげて挨拶に来させようとしている意味です。
この手紙はヤンキーの流儀では「お前のことをナメているよ」という意味の手紙です。内容は高圧的だけれど、表現は丁寧に書いているのが一流のヤンキーの脅し方です。
普通、この状態で会いに行ったら子分になれと言われるに決まってます。
実は鎌倉にも元にブチのめされた南宋という国から逃げてきた人たちがいるので元の強さを全く知らないというわけではありません。
ヤンキーならナメられたらケンカを買わなければなりませんが、ケンカを買ったらこちらからカチコミに行かなければなりません。
「いつでもかかってこいや!」と待ちの返事をしても相手が攻めてこなければ、「こっちから攻めましょうよ」と言ってくる奴が出てきて、攻めに行かなければビビリ扱いされます。
さすがに鎌倉幕府がヤンキーばかりとは言え、幹部衆は元に攻め込んで勝てるとは思わないでしょう。
「子分になります」なんて答えを返せば、国際情勢も知らない血の気の多いヤンキーたちが怒り狂う。最悪子分に殺されます。
かと言って「日本ナメんな!」という返事を出せばカチコミにいかなければ示しがつかない。
ナメられてる状態で「これからは仲良くしよう」みたいな曖昧な返事をすることも示しがつきません。
ヤンキーの世界では、ナメられてはいけない相手にナメられたことを認めた時点で戦う以外の選択肢はありません。
となると、「ナメられた」ことが隠せないのであれば、「ナメられてはいけない相手」の部分を取り繕うこととなります。
だから、
「なんか遠くのアホが吠えてるが、あんなの相手にするまでもねーから」
とシカトするのが子分たちの信頼を最も失わない最善の一手です。
こっちからカチコミに行くのは無理でも、島国という特性、海がないモンゴルの海軍ということを勘案すれば(実際に船を出したのは元の子分にされた高麗(朝鮮半島の国)ですが)、海岸線での防衛戦であれば勝ち目があるので、元が諦めてくれたら儲けもの、最悪でも防衛戦で勝つという算段を持っていたのではないでしょうか。
幕府は何度も来る使者にシカトを繰り返しつつ、九州の防衛戦を固めにいきます。
室町時代の足利義満は元を倒した王朝「明」と朝貢貿易という形で貿易をして金を稼ぎました。これは明の子分になるということで、当然反発もありましたが、義満にはそれをはね返すだけの力がありました。
しかし、この時の鎌倉幕府の執権は18歳の北条時宗。若い組長代行が国際情勢も分からずにいきり立つヤンキーたちを前に「形だけでも元の子分になろう」とは、思いついたとしても言えなかったのではないでしょうか。
というのは何の根拠もなく、普通のヤンキーだったらどう考えるかなという仮説です。
しかし、私は生粋のヤンキーではないので、この説が本当に正しいかどうか自信がなく、本物のヤンキーによる検証が必要です。
インタビュー ウィズ ヤンキー
ということで、2人の現代の元ヤンに元寇についての意見を聞いてみました。私は反社の人とは全くつながっていないので、今は真っ当な仕事をしている昔悪かった人に聞きました。
お二人には上記の仮説を見せた上で、「元寇のときの鎌倉幕府の対応をヤンキーの視点から検証しているんだけど、ヤンキーとしての意見を聞かせてもらえないですか?」とチャットしてみました。
訳のわからない質問に付き合ってくれたお二人に本当に感謝です。
■具体的には書けないけどとにかく悪かったB君(関東出身)の意見
やはり、ヤンキーの組織のトップは、組織内でのメンツを重視した行動をするようです。もしかしたらB君の言う通り、鎌倉幕府も裏でツテがないか探っていたかもしれません。
■元暴走族総長Oさん(関西出身)の意見
暴走族総長まで務めたOさんの視点でも、イキる下をどう納得させるかと、抗争の費用対効果を冷静に計算しているのが見えます。
Oさんはシカトはしないという選択肢でしたが、それは総長としてケンカを買った責任が生じた時に、Oさんが下のものに対して最後は鉄拳制裁で言うことを聞かせられる強い力関係を持っていたからだと思います。
18歳の組長代行にOさんほどの力がなかったとしたら、責任(抗争後の補償と報奨)をどうするのか曖昧にしたまま「ふざけんな、かかってこい」と言えたかどうかは定かではありません。
訳の分からない質問に丁寧に返信してくださったB君、Oさん、本当にありがとうございます。お二人のお陰でまだ分からなかった日本史の謎の答えに一歩近づけたかも知れません。
本当のところは研究が進めばいつか分かるかもしれません。
一般的な解説は世の中にたくさんあるのでそちらを読んでください。
元を退ける
モンゴルは結果的に2回攻めてきます。1回目(文永の役)は軽く、2回目(弘安の役)は大群で。
以前は元寇は神風により退けられたと言われていましたが、近年の研究では台風も要因の一つで、元の内紛やヤンキーたちの頑張りで退けたということになってきているようです。
そもそも1回目は10月中~下旬なのであんまり台風が来ない時期です。最初は斥候目的だったとか諸説ありますが、元は九州に上陸しましたが退却していきました。(私は格下にシカトされたことに対してメンツを保つことが目的だから軽くカチコミに来ていたからではないかと思ってますが)
2回目が来る前に幕府はヤンキーたちに命じて博多湾に防壁を作らせて元の再度の攻撃に備えました。途中元からの使者がまた来ますが、もう抗争は始まっているのでぶっ殺して返します。
ということで2回目の元の侵攻が来ます。元は5月に攻めてきますが、防壁なども使いヤンキーたちが必死に応戦し、台風シーズンの7月まで善戦し続けます。そこに台風が来て元の船は大量に沈み、勝負は決しました。
3回目は来ませんでした。元も世界中で戦争しまくっており、他の地域での反乱の制圧などが忙しく、勝っても得るものが少ない日本との戦いにもう一度挑戦するのは割が合わないと思ったのでしょう。
元寇のツケ
ヤンキー達の奮戦により元を撃退することに成功します。
しかし、抗争の負担はヤンキー達に重くのしかかります。
これまでの国内の抗争では、負けた奴らのシマをぶんどって、活躍したヤンキー達に恩賞として与えていました。
しかし、今回は防衛戦なので得るシマがありません。
抗争の際の戦費は子分持ち、勝ったときに親分からシマを与えられるというのが鎌倉組のご恩と奉公の仕組みだったのに、ヤンキー達は大金を使って命がけで戦ったにも関わらず何も得るものはありませんでした。
この怒りから幕府への忠誠が薄れていき、ヤンキーたちが離れることで鎌倉幕府を支える暴力が衰えていくのです。
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