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番外編 ヤンキー魂で東大入試を解いてみる

ヤンキー魂で東大日本史は解けるのか?


今回は番外編で、ヤンキーの知識で東大入試の日本史を解けるかチャレンジしてみたいと思います。

東大の安田講堂
実は、東大には1年間暴走族と行動を共にして暴走族文化の研究をした先生もいた。
暴走族のエスノグラフィー

東大文系入試の社会科は世界史・日本史・地理の3つから2つ選択です。
そのうち、日本史は独特の問題で、提示された資料を見ながら、なぜそのような事件が起きたのか考えさせる問題で構成されています。
見方によっては、膨大な量の固有名詞を憶えないと回答できない私立大学の入試よりも難易度は低いともとれます。
その代わり、丸暗記では回答ができず、なぜなのか理由を深く考える思考力が求められます。

ということは、東大入試であってもヤンキーがなぜそういうことをしたか答えろという問題なら、ヤンキー魂があれば解けるかもしれません。

セレブや町民の問題が出たらアウトですが、前回元寇のときの幕府の行動の理由を現代の元ヤンに分析してもらったように、ヤンキーに関する問題に限っては、ヤンキーが一番気持ちがわかるはずなので、試しにヤンキー的な問題を選んで解いてみようと思います。

今回選んだのは、1997年の問2です。これは鎌倉時代のヤンキーの気持ちを考えろという問題ですので、ヤンキーの気持ちになって解いてみてください。

次の(1)から(5)の文を読み、下記の設問に答えよ。
(1) 1203年、北条時政は、孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し、幕府の実権をにぎった。この地位を執権といい、以後北条氏一族に世襲された。

(2) 1219年に実朝が暗殺された後、北条義時は、幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた。

(3) 1246年、北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき、有力御家人の三浦光村は、頼経の輿にすがって、「かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う」と涙ながらに言い放った。翌年、時頼は三浦泰村・同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた(宝治合戦)。

(4) 1266年、北条時宗は、15年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事件について、史書『増鏡』は、「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が、この宮に昼夜むつまじく仕えている間に、いつしか同じ心の者が多くなって、宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう」と説明している。

(5) 1333年、後醍醐天皇の皇子護良親王は、諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなかで、次のように述べた。「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが、承久以来、わがもの顔で天下にのさばり、朝廷をないがしろにしてきたが、ついに最近、後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た。天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は、下剋上の至りで、はなはだ奇怪である。」

【設問】
A 鎌倉幕府の体制のなかで、摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。北条氏と将軍との関係、反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら、3行以内で述べよ。

B 護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行以内で述べよ。

ちなみに、1行は20文字なので3行は90文字、4行は120文字です。

問A 鎌倉幕府の将軍・北条家・アンチ北条の関係

問Aは、組長代行をやっていた北条氏とお飾りの組長の関係です。そこに、アンチ北条が混ざってきます。
ヤンキーだったらまずこんな長い資料を読むのはめんどくさいので、とりあえず、資料を読まずにヤンキーの気持ちで考えて、後から資料を見て確認してみましょう。

まず、鎌倉組の実権を握っているのは組長代行の北条家でした。
しかし、北条家が組長代行をできているのは、「頼朝の親っさんの意志を継いで」という大義名分で、建前上ヤンキーたちのケツモチをしているのは将軍という関係があります。
しかし、北条家としては、本当に将軍に権力をもっていかれても困るので、お飾りで言うことを聞く貴族とか皇族とかを置いておきます。

まとめると、北条家と将軍の関係は以下です。

ヤンキーたちにケツモチの約束をしているのは将軍であり、北条家は自分が権力を得るために言うことを聞く将軍を置いてる。

では、アンチ北条の立場に立って、北条家から権力を引っ剥がすのになにをしたらよいかを考えましょう。
言うことを聞かせられる将軍を自分たちの味方にすれば、自分が組のことを仕切れるようになるというのは、ヤンキーであれば誰でも考えつく発想です。

ここで、資料4を見てみます。

(4) 1266年、北条時宗は、15年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事件について、史書『増鏡』は、「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が、この宮に昼夜むつまじく仕えている間に、いつしか同じ心の者が多くなって、宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう」と説明している。

「宮」というのは天皇家の人ことです。今でも皇族の方のことを「宮様」と読んだりします。
アンチ北条どもが宮様(お飾りの皇族将軍)のところに集まって担ぎ出そうとしているのがこの資料から読み取れます。

ということで、アンチ北条と将軍の関係は、
アンチ北条は、皇族将軍を担いで北条家を倒そうと狙ってる
ということになります。

つなぎあわせて90文字で回答を作ると、

ヤンキーたちにケツモチの約束をしているのは将軍であり、北条家は自分が権力を得るために言うことを聞く将軍を置いてる。アンチ北条は、その将軍を味方に引き入れ北条家を倒そうと狙ってる。(89文字)

一応パンピーの言葉に直したものも書いておきます。

武士は将軍と主従関係を持っており、北条家は権力を得るための権威として実権のない将軍を置くが、北条反対勢力も、その将軍に近づき権威を手に入れ、北条家から権力を奪うことを企てている。(89文字)

ヤンキーの常識で答えてもわりとそれっぽい回答になりました。

問B 北条家はなぜ将軍にならなかったのか?

【設問再掲】
護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行以内で述べよ。

問題文が難しいので、ヤンキー語に翻訳しましょう

天皇の息子は、鎌倉組を仕切っていた北条本家を「田舎のヤンキーのガキ」とバカにした。平安時代から鎌倉時代のこういうこと言っちゃうセレブの身分意識も考えながら、なぜ北条家は将軍になれなかったのか、あるいはあえてならなかったのか答えろ

基本的にセレブはヤンキーのことをバカにしています
でも、源頼朝はヤンキーなのに征夷大将軍になってます。同じヤンキーなのに北条家は「田舎のヤンキー出身だから」とバカにされ、将軍になれないのはなぜでしょうか。

源頼朝はヤンキーですが、抗争での手柄が認められて今で言う首相官邸である天皇の家に出入りして、セレブの世界での地位も得ています。
しかし、そういう地位の差が、将軍になれるかどうかにつながっているという答えを書くなら、まだまだヤンキー魂が足りません

ここには書いてない情報ですが、実際、あの頼朝の親っさんも征夷大将軍になるのには、なりたいと言い始めてから7年かかりました。強硬に反対していた後白河上皇が死んでからようやく征夷大将軍になれたのです。
ただ、この情報を知らなくとも、セレブとヤンキーの関係を理解していればわかります。セレブは本心では野蛮なヤンキーにはそんな大切な地位をあげたくないのです。ただの田舎のチンピラはダメだけど、日本最大の組の組長ならいいよなんて、セレブは言いません。ヤンキーであるというだけでセレブは嫌がるはずです。

相手が嫌がってることを押し通そうとするときにヤンキーだったらどうするでしょうか。
もちろん暴力をチラつかせた脅しです。

頼朝の親っさんは全国のヤンキーたちに慕われており、「親っさんが将軍やりたいなら」という頼朝の個人的な望みにもヤンキーたちは力を貸してくれます
現代の役所やセレブが勤めるちゃんとした会社の感覚で考えると、トップの個人的な要望や利益に部下が仕事として付き合うというのは普通はないことです。
しかし、ヤンキーの世界では子分は親分の個人的な要求にも付き合うものと決まっています。タバコ買ってこいとか、女連れてこいとかの命令はチームの利益としてではなく、親分の個人的な要望です。もちろんヤンキーだけではなく、師弟関係を重視する職人、料理人、芸事の世界や中小企業でもまだある話です。
源頼朝が将軍になることは組全体にとっても利益になることですが、それでも組の中で誰が役職につくのかは力関係がものをいう世界です。

しかし、北条家は組長代行です。ここで問Aを解いたことが生きてきます。
ヤンキーが盃を交わしてるのは、組長代行ではなく組長。組長の個人的な願いだったり、組長が偉くなるためなら付き合う道理はありますが、代行自身が偉くなりたいとか地位を得たいという望みに付き合う義理はありません
そして、たとえお飾りだとしても、組長を差し置いて代行自身が組長になろうとしたら、反対派が抗争をしかける大義名分を与える口実になることは目に見えています。
特に鎌倉後期は、元寇での恩賞問題をはじめとして、ヤンキーの気持ちが北条家から離れていった時期です。この時期に反対派を調子づかせることはできません。

北条家がヤンキーたちの協力を得て暴力を使うことができるのは「組全体のために」という大義名分があるときのみです。しかし、このように「北条家が組長になることが最も組のためになること」とは言えない状況にありました。
となると、朝廷にかけられる脅しの暴力の重みが違ってきます。
まとめると、

ヤンキーは盃を交わした組長や組のためなら命を張るが、組長代行のためには命は張らないので北条家は暴力をチラつかせ天皇に将軍にしてくれと脅しをかけにくい。
それに、下手に自分が組長になろうとしたら、反対派に攻撃させる口実を与える。(112文字)

パンピー言葉への翻訳も書いておきます

武士は御恩と奉公の関係を持つ将軍には個人的利益も含めて命令に従うが、得宗にはその関係性がないため、朝廷に要望を通すために行使できる軍事的圧力が十分ではない。
また、自分が将軍になるということは、反北条派に攻撃の口実を与えることになる。(116文字)

答え合わせ

大学入試の過去問集、赤本で解答を書かれている方のサイトのリンクも張っておきます。
https://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu972.html

Aの解答

鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係で成立しており,北条氏は幼少の将軍を立てることで幕府の実権を握ろうとした。一方で反北条氏勢力の御家人は将軍を中心に結託し,北条氏打倒を企てていた。

Bの解答

鎌倉時代,幕府と朝廷は共存するものであり,将軍は貴族社会においても認められるものでなければならなかった。しかし,北条氏は在庁官人出身という貴族社会においては下位に位置付けられる身分出身で,この点で将軍にはふさわしいとみなされなかった。

ヤンキー解答はどうだった?

Aはだいたいヤンキー的に考えたものと同じですが、Bはヤンキー的思考とは別の考えをとっています。将軍になる条件をヤンキー回答では「脅すときの暴力の強さ」、赤本回答では「貴族社会で認められているかどうか」としているところが違います。

東大入試の回答は一つではなく、公式の模範解答は公表されていないので、何が正解なのかはわかりませんが、ヤンキー回答でももしかしたら点はもらえるかもしれません。

数千年の文明程度で人間の本質は変わりません。
歴史は無機質な固有名を憶える暗記作業ではなく、人の営みを理解したり、わたしたちが世界をどのように捉えるのか多様な視点を提供してくれるものです。
文明が進歩したから人が変わったのではなく、人は変わらないけれど文明の進歩で置かれている環境が変わったから人の行動が変わるのです。

東大日本史は、私達と違う時代の人がなぜ、そのような行動をしたのかを理解することで、自分にはない多様な社会の捉え方を考えさせてくれる良い問題が多いです。
その多様な視点の中には、人類のマジョリティであるヤンキーの視点が含まれているので、場合によってはヤンキー的な考え方で問題が解けるときもあるのではないかと思っています。

東大入試で過去の時代のヤンキーの気持ちを理解する設問がでるのは、歴史を通じて、自分以外の人や社会の考えや視点を理解する力を求めているのではないでしょうか。
入試の年によって、ヤンキーのときもありますし、セレブのときもありますし、自分とは様々な立場の人達のなぜを聞く設問が多く出ます。資料を読む力は求められていますが、それ以上に自分の知っていることだけではなく、他者の考えに思いを至らせることが求められているのではないかと思うのです。

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