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研究員挨拶:石川裕貴(音楽教育研究室)

自己紹介

 この度、ピティナ音楽研究所の協力研究員となりました、石川裕貴(いしかわゆうき)と申します。
 私は、弘前大学教育学部生涯教育課程芸術文化専攻でピアノを専攻、同大学院教育学研究科学校教育専攻教科実践コース音楽教育領域で音楽教育学を専攻し、現在、埼玉県公立中学校にて音楽科教諭を務めております。
 私は元々、中学校の音楽科教諭を志しておりましたが、大学院に進学し、音楽教育学を専攻することとなったきっかけは、学部3年次での教育実習です。教育実習を通して、教壇に立って音楽科教育を司るためには、ピアノだけでなく、音楽教育学と向き合い、知識や教養をもっと深めていかなければならないと痛感しました。そこで、教員採用試験合格後、教育委員会から大学院進学の猶予を頂き、音楽教育学を追究していくこととなりました。そして、音楽教育における〈音楽〉と〈言語〉の関係性について、「ポスト構造主義」や「新実在論」を視座として、現在も研究を進めているところです。

研究テーマ:「音楽の反解釈」

「ヒトが生まれるはるか以前から音は存在した。あまりにも自明すぎるので普段は忘れているが、音楽とことば、という二つの奇蹟が誕生するより先に、この世界はおそらく音で溢れていた、ということだ。そして、音楽もことばも、実は音でできている。」

今田匡彦『哲学音楽論:音楽教育とサウンドスケープ』

 これは、弘前大学教育学部教授である今田匡彦の著書『哲学音楽論:音楽教育とサウンドスケープ』の序章の冒頭です。なるほどヒトが生まれるはるか以前から世界中にはたくさんの「音」が存在し、どういうわけかそこから奇蹟的に〈音楽〉と〈ことば〉が誕生したそうです。この二つの奇蹟は、実は西洋の歴史に立ち返ると、〈ことば〉が〈音楽〉の上位概念として存在してきたことが分かります。
 西洋哲学では、世界のあらゆる事象の普遍、原理を〈ことば〉によって追求し、意味づけようとしてきました。故に、それら事象のひとつである〈音楽〉においても、〈ことば〉による意味づけによって、その存在価値が問われるようになりました。〈ことば〉によって普遍、原理を追求してきた西洋哲学の世界では、鳴り響く空気としての〈音楽〉そのものの〈形式〉ではなく、当然〈ことば〉による説明、すなわち〈内容〉に価値が置かれる次第でした。
 〈ことば〉には意味が存在します。例えば、〈イシ〉ということばには、同じ音韻にもかかわらず、「石」「意志」「医師」といったさまざまな意味が包含されます。では、〈音楽〉そのものにそのような意味など存在するのでしょうか。答えは単純明快であり、〈音楽〉 は鳴り響く空気でしかなく、そこに意味など存在しないはずなのです。
 ところで、皆様はピアノを練習する際、どのようなことを大切にしているでしょうか。〈作曲者の背景〉〈感情〉〈イメージ〉等、様々な観点が考えられると思います。しかし、アメリカの批評家ソンタグは、次のように述べています。

「いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない。」

S.ソンタグ『反解釈』

「われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。」

S.ソンタグ『反解釈』

 もし音楽が、〈作曲者の背景〉〈感情〉〈イメージ〉などの解釈といった〈内容〉の追求によって価値づけられた〈音楽〉という概念としてしか存在し得ないのであれば、鳴り響く〈形式〉そのものとしての〈音楽〉の艶や肌理(きめ)は喪失してしまいます。このように〈音楽〉が〈ことば〉によって飼い慣らされれば、音楽は確実に亡んでしまうのです。
 このような事態を避けるために、「音」そのものの〈形式〉に寄り添う「語彙」や指導の仕方を、哲学的な理論と教育現場での実践を通して、追究していきます。

メッセージ

 私はピアノの練習をする際、「このような音を出したい」という意志に基づいて、フィンガリングや体の使い方を考えます。そのためには、「音」そのものをよく聴き、五感を通じて感じ取ることが重要となります。
 皆様が耳を研ぎ澄まし、徐々に喪失しつつある(であろう)感覚的経験の鋭敏さを取り戻すことで、あの忘れかけていた感覚を呼び覚ましていくことができるよう、そして、何よりも「音」にこだわった演奏を追求していく一助となるよう、協力研究員として、さらに精進していく所存です。何卒、宜しくお願い申し上げます。

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