勉強する目的について
久しぶりにnoteを書きたくなったのでこうして画面に向かっている。
少し前まで、毎日違ったテーマを決めてそのテーマについて書くということをしていたんだが、どうしても書くこと自体が目的となり、そのために付け焼き刃で仕入れた情報や知識はどうも生焼けのようで、とても人に読んでもらえるようなものではなかった。
なので、少しの間、書くことを控えていたのだが、その間にもなぜか読んでくれる人が増えていたようで、いいねの通知が来るたびにありがたい気持ちと、その一方でいいねされた投稿がいつのものか、どのような内容かすらも覚えていないことを申し訳なく思う気持ちが交錯していたように思う。
なので、これからは毎日といった縛りを自分に課すことなく、本当にしっかりと噛んで深みの出たものが書けるようになったタイミングで書こうと思う。
というわけで、最近の僕はというと、大学の編入に向けて準備に着手したところだ。
編入学試験に向けて、僕が編入を考えている大学で教科書や参考図書になっている本を調べて片っ端から買ってみたのだが、その量を見て少し心が折れかけていたところだ。
まぁ、それでもこれくらいは読まないといけないんだろう、これくらい読めないようなら研究者を目指す資格もないのだろうと自分に言い聞かせながら、少なくとも編入するまでには全て読み切ろうと思っている次第である。
そんな教科書たちとは別に、哲学者の鷲田清一さんが書かれた『人生はいつもちぐはぐ』というエッセイ集を読んでいる。
現代の教育現場の病理や人生の生きづらさについて非常によく書かれていると思う。
『わかりやすさの落とし穴』という章がある。
その章の中に、
という一節がある。この一節について少し考えてみたいと思う。
僕たちは自分たちが勉強する目的は分からないことをわかるようにするためだと思っている。
僕が塾で教えている中高生も、今分からないことを分かるようになるために塾に来て勉強をしている。と、僕もそう思っていた。
しかし、鷲田さんはそうではなく、分からないものを分からないままに迎え入れることだと述べている。
僕たちが子供の頃に学校でしていた勉強には必ず答えがあった。もともとなかったものにも先生たちが答えを作って僕たちに与えていた。
そして、それが『分かるようになる』ことが勉強の目的であった。
しかし、いざ大人になって社会に出てみると答えを『分かる』ことができる場面の方が少なくなる。
何もかも不確実で、いろんな可能性を秘めたまま決断し、行動しなければならなくなる。つまり、『分かる』ようになってから動き出すということができなくなってしまうのだ。
子供の頃の学校教育に慣れ親しみすぎた僕たちは、常にわかりやすいものを求めるようになってしまった。
簡単に求める裏技とか、なるべく分かりやすく解説してくれる解説書が巷には溢れ返り、そっちの方が人気を博している。
僕の生徒たちもそういうことを求めている。
しかし、僕は絶対にそんなものは与えない。なぜかというと、それを与えてしまっては考えなくなってしまう。
つまり、分からないという事態に耐え抜く知性の体力を育てることができなくなってしまうのだ。
『就活』をしている大学生が病んでしまうという話もよく聞く。
それは一つに、その体力を養うことのできないまま『就活』を初めてしまったのだろう。
全く何も分からない不確定な未来に向けて動き出すだけの体力をつけられなかったのだろう。
だから、確実に分かるようになってから動き出そうとするし、逆に少しでも不安要素があるとその場から動けなくなってしまうのだ。
面白いのは、それが決して学力の低い大学の子達だけじゃないということだ。
一般的に一流大学と言われる大学を出た子達でさえ、その体力がない子は多いように思う。
そのような事象が起きるのは、恐らく彼らが『知識を蓄えるための勉強』はしてきたものの『知性の体力をつける』ための勉強をできてこなかったからであろう。
つまり、それは半分は彼ら自身の責任であり、半分は教育システム自体の問題なのではないだろうか。
鷲田さんはそんな教育システムの変化についても本書の中で言及されている。
僕にはスッと入ってくる内容であった。全てが全てというわけではないが、僕はぼんやり思っていたことを見事なまでに言語化してくれたようだ。
これだから、言語的な才がある人には憧れてしまう。
今は稚拙な文章かもしれないが、少しずつ深みのある文章を書けるようになりたいと切実に思っている。
勉強する目的について。
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