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コムスン伝説6 いばらの道②

どの市町村もケアマネ不足は深刻である。しかし、コムスンは破格の高給でケアマネを集めているのであのHみたいな糞もいれば熱意のあるケアマネも多くいた。ケアマネで自ら営業に走ったり、介護保険施行前にコムスンをアピールするために訪問入浴のデモンストレーションを厳冬の屋外で自らモデルになる人もいた。それがAさんだった。Aさんとはよく語り合った。施設や病院での介護職の態度やデイサービスの風船バレーなどの問題点をよく語った。「高齢者の尊厳を守ろう!」とよく語った。

営業も一緒にした。当時は役所が介護保険の先端だった。

ある寒村部に村でケアプランの受け入れを営業した。当時のケアマネの持ち数は100が限界だった。しかし、この村にはケアマネ1人に対して介護保険課の担当が150人の要介護の高齢者がいるという。そこで「ケアマネ1人で100人ですけどどうしますか?」と訊いたら「頑張ります!」という返答があった。さすがに閉口した。

こんなこともあった。社会福祉協議会に挨拶に行ったときに「我われ行政は!」と凄んできた役職がいた。

社会福祉協議会は一応は民間である。

介護保険の草創期に介護会社を設立して囲い込みをした医療法人は厚い壁だった。

昔から高齢者福祉が発達している地域もすでにシステムができていた参入ができなかった。

措置制度の時代から訪問介護を社会福祉協議会が独占していた市町村も参入が難しかった。さらには社会福祉協議会は「我々行政おじさん」みたいな人がたくさんいて「民間」を完全に卑下していた。囲んだ仕事を渡すわけがない。

さらには給料で社会福祉協議会のヘルパーとコムスンのヘルパーは雲泥の差であった。これも社会福祉協議会を「敵」に回した原因である。

結局、医療法人系も社会福祉協議会も深夜のケアや山深い遠方の地域で自分たちでは到底できないキツい仕事をコムスンに投げてきたのだ。コムスンも仕事が欲しいから採算度外視でどんどん受けて行った。ここから「コムスンはどんなケアでも受ける」といわれるようになったのだ。

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