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この記事では2024年9月8日(日)の十日町教会における礼拝メッセージを紹介しています。



聖書:ヨハネによる福音書10章1〜6節

説教「その声を知っている」

羊のまつわるたとえ話

 イエスが語ったたとえ話に耳を傾けました。羊にまつわる話です。聖書とりわけ旧約聖書を読むとユダヤ人と呼ばれる民族の祖先は牧畜をしていたことが分かります。ユダヤ人の父と呼ばれるアブラハムも羊飼いでしたし、海を割ってエジプトから脱出する人々を率いたモーセも羊飼いをしていました。さらにはイスラエル王国を樹立したダビデという王さまも最初は羊飼いの少年として聖書に登場します。私たち日本に住む人にとっては羊や羊飼いの生活はあまり馴染みのないものですが、イエスの話を聞いていたユダヤ人にとって羊にまつわる話は非常に身近なお話だったと思います。しかしイエスのたとえ話は今日の箇所の結論部である6節に記されている通り、話した相手に理解されませんでした。6節をお読みします。私は普段説教の準備をする時は皆さんがお持ちの新共同訳聖書ではなく2018年に出た新しい翻訳聖書である協会共同訳を使っていますので、そこから引用します。ところどころ訳が違うと思いますが、訳の違いも味わい楽しみながらお聞きください。それでは読みます。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」

その話は誰に向けて?どんな内容?

 今日語られたイエスの話は誰に向けて語られたのかというとファリサイ派の人々に向けて語られたたとえ話です。たとえ話というのは以前にも話したことがありますが何かを分かりやすく説明するために用いられる例話ではなく一種の謎かけ話です。ですからこの場面はイエスの出した例話が下手でファリサイ派の人々にうまく伝わらなかったという意味ではなく、イエスが語ったたとえ話、謎かけをファリサイ派に人々は解き明かすことができなかったということです。ではどんな内容のたとえ話が語られたのでしょう。内容に進んでいきたいと思います。

謎解き開始

 1節以下「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」千葉におりました時に成田ゆめ牧場という観光牧場があって家族で行きました。観光牧場に行くと羊、山羊、牛、馬など様々な動物を見ることができますが、動物たちは逃げ出してしまわないように、あるいは他の相性の悪い動物と一緒にならないように囲いに囲まれて生活しています。今から2000年前のパレスチナにおける牧畜において羊を飼う際には、石垣で囲まれた囲いに羊たちに入れて管理していたようです。囲いには一箇所出入口があり、門を設置していました。あるいは門番が門の代わりを担っていました。正式な門から入って羊を牧草地帯に連れ出して食事をさせたり、運動させたりするのが羊飼いです。一方で囲いにいる羊を盗み出そうと企む悪党がいました。それが今日の話で登場する盗人、強盗です。彼らは当然出入り口からは入ってきません。囲いを観察して例えば石垣が崩れていて登って行けそうなところを見つけて不法侵入し、羊を盗もうとします。

キーワードは羊は自分の羊飼いの声を知っていること

 羊の囲いに侵入してくる盗人、強盗に対して羊たちはなすすべなくさらわれてしまう無力な存在なのでしょうか。そうではないとイエスは言います。3節以下のイエスの言葉を引用します。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。………羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」イエスは羊たちは自分の羊飼いの声を知っていて、自分の羊飼いではない人に呼ばれても付いていかない。逃げ去るのだと言っています。自分の羊飼いの声を知っている。これが今日のお話のキーワードです。

保育園の0歳児クラスの話

 十日町幼児園では年度当初の4月は0歳児クラスに1人のお友達しかいませんでしたが、新入園児が次々と与えられて現在で5名の子が在籍しています。0歳児クラスには現在2人の先生が担当しており、0歳児クラスですからまずは子どもたちと愛着関係を築くこと、この人は自分を大切にしてくれる、守ってくれる人なんだと思ってもらえるように関わることを大切に保育してくれています。保育園に入りたて、知らない人や知らない環境に囲まれて生活する子どもにとって担任の先生のそばが最も自分の安心できる場所となるので、例えば担任が給食を配膳するために子どもたちのそばを少し離れると涙を流してしまうこともしばしばです。そういう姿を目にしながら、担任の先生たちがこの子羊さんたちの良き羊飼いとなって良い関係作りができているなと感心しています。

 0歳児クラスにいる1人の子はとても分かりやすく私を見るととても警戒しています。大きな体のせいでしょうかね。それまでにこにこな表情で遊んでいたのに私のことが視界に入った瞬間表情が険しくなり、担任の腕をぎゅっと掴んだり抱っこしてもらったりして守られる体制になります。あるいは廊下で遊んでいて担任がそばにいない時に私が用事で廊下を通るととりあえず声を出して泣き出します。私としてはちょっと寂しい気持ちで早く慣れてくれないかなぁと思っているんですが、今日のイエスさまのたとえ話を聞き、キリスト教保育を行う幼児園としてはこれで良いのだなぁと思えました。それは羊が自分の羊飼いの声を知っているからです。子どもたちが自分のことを大切に思ってくれる、愛してくれる、お世話をしてくれる存在が誰なのかをよく分かっています。0歳児さんという小さな子であっても自分の羊飼いの声や顔を知っていて、自分の羊飼いには付いて行くけれどほかの人には決して付いていかいかないのです。私のような見知らぬ人が近寄ると逃げたり声を出して泣いて自分の羊飼いに教えてくれます。

イエスがたとえ話を語った文脈

 イエスは羊にまつわるたとえ話をファリサイ派の人にしました。前の9章の文脈から考えるとファリサイ派の人たちは疑問を抱えていました。「どうして民衆はユダヤ教の教えに精通して正しいことを教えられる自分たちではなく、ナザレ出身の大工の息子イエスなんかに惹かれ付いて行くのか」と。この問いに対するイエスの答えが今日のたとえ話なんですね。「文字の読めて律法に精通しているエリート階級に属するあなたがたにとって、民衆は無知な存在、羊のように思っているのかもしれないけどそうじゃないよ。彼らもまた神さまの子どもとして神さまの言葉を聞き分けることができるんだよ。だから彼らは良い羊飼いである自分について来るんだよ。」しかし残念ながらイエスのたとえ話は彼らには伝わりません。自分たちが正しいというプライドがあるからでしょう。でも羊は自分の羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分けることができるのです。

羊はその声を知っている

 0歳児という小さな子どもたちも自分のことを愛し、大切にお世話をしてくれる存在が誰なのか、その声をちゃんと知っています。教会に足を運ぶ人たちも同じです。キリスト者であるなしに関わらず、初めて礼拝に参加した方であっても自分のことを愛してくれる存在、大切にしてくれる、お世話をしてくれる神さまの声を知っており、その声に従っていく時に自分が愛されていること、神さまから必要なケアを受けていることを実感して幸せな思いに包まれるのです。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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