一人称単数:どうしてもツッコミたいところを書いて寝る
僕にとっては今更言うまでもないことなのだけれど、このnoteを読んでくださる方向けに改めて書くと、僕は村上春樹ファンである。
どのくらいファンであるかというと、翻訳以外は概ねすべての著作を読み切っているくらいにはファンであり、「ウォーク・ドント・ラン」みたいなレアな(?)過去の著作も持っていたり、「街と、その不確かな壁」みたいな著者本人が失敗作と考えている著作も(コピーだけれど)持っていたりする。「一人称単数」に登場する「ヤクルト・スワローズ詩集」はさすがに持っていないけれど。
そういうわけで、おそらくこれからも幾度となく村上春樹の著作を読み返し、彼のファンで居続けるのだと思う。
しかしまぁ発売されたものをいち早く読むタイプのファンではないので(そんなファンあるのか)、いまさら「一人称単数」を読んだ。率直に言うと、過去の作品のほうが好きなんだよね。
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総じて言えば面白いと思うし(ここ大事)、やはり村上春樹の書く文章の雰囲気は好きであるし、村上春樹が自分の人生を投影し、抽象化し、改めて紡ぎ出された言葉の中から出てくる「はっとする表現」みたいなものは散りばめられているし、そういったものは好きな作品と思う。
ただ、今作は村上春樹本人の半自伝的な投影が非常にあからさまな作品なので、ちょっとそこは・・・というところもあった。今日はそこだけ書いて寝ます。笑
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ところで僕はなんの前知識もなくただ作品を読んだので知らないのだけど、これって本人は半自伝的だとか言ってるのだろうか?
基本的に村上春樹作品の「僕」は架空の「僕」であって、村上春樹本人の経験やら聞いた話やら想像やらのもろもろによって構成されていたと思うけれど、今回の「僕」はかなり村上春樹本人色が強い。というか一部の作品では完全に本人である(村上春樹、という言葉が村上春樹の小説に書かれると思わなかった)。一方で、「品川猿」のような架空の何かが織り交ぜられている作品もある。
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やっと本題。
「ウィズ・ザ・ビートルズ」の「僕」がジャズやクラシックばかり聴いていて、ビートルズはラジオで知ってたけどレコードは持ってなくて、歳を取ってから買った、というエピソードがあるけど、これは村上春樹本人の話そのままである。
同じく「ウィズ・ザ・ビートルズ」で「僕」は「もてた、という経験はないが、なんだかんだそれぞれの状況において自分に興味を持ってくれる女性がいる」ということを述懐している。僕はビートルズのレコードのエピソードで、この「僕」には村上春樹本人の経験がかなり濃い目に投影されていると解釈してしまったので、「あー、村上春樹作品が”都合よく女性が寄ってくる”と批判されるのは本人にとっては自然なことだったのか」と妙に納得したりした。
で、そういう「僕」にはじめてガールフレンドができて、キスをして、はじめてブラの上から乳房に触った、って、それも村上春樹少年の経験談にしか見えなかったし村上春樹のそのエピソード誰得なの。笑
「ウィズ・ザ・ビートルズ」の「僕」は村上春樹本人であると断定できる描写はなかったはずなので、初恋の話は架空のものかもしれないのだけれど、僕が村上春樹ファンすぎるが故にいくつかのエピソードが本人のものだとわかると他のエピソードも事実ベースに見えちゃうというね…笑。
はじめに書いたとおり、総じて面白いし、表現力はさすがだし、「分岐路で”あちら”を選ばなかったらどうなっていたのか?」という、村上春樹本人が相応に歳をとり、人生を振り返るステージに入ったからこその描写は考えさせられるものがある。
ただツッコミをどうしても吐き出してから寝たかっただけです。おやすみなさい。