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強さとは非情さ。俺は弱者。
最近思うことは
「俺には非情さが足りないのではないか?」
そう感じることが多くなった。
そこで出会った本が
「成功する男はみな非情である」だ。
まだ3分の1程度しか読んでないが
感じることは沢山あったので
アウトプットしていきたいと思う。
この本はまさに「成功者とは?」という
本質が書かれた本だと思った。
ここでの成功者の定義は
圧倒的な富と名声を築きあげる
具体例を挙げると
孫正義さん。スティーブジョブスなどの
世界に名だ成る成功者になるためには?
そのような本だと感じた。
結論から言うと
人間を捨てれる奴が成功し
人間を捨てきれない物が敗者になる。
僕はそう解釈した。
何をしてでも頂点に上り詰める。
人を蹴落としても、知ったことではない。
自分の利益のためにはどんな手段も使う。
そんな人が大きな成功を収めると。
極端だがこのようなことばかりかかれていた。
しかしこれが競争の本質なのかもしれない。
これが事実なのかもしれない。
僕は大学時代に体育大にいた。
中には大学で日本一になるやつとも
身近に接してきた経験がある。
僕は陸上を専攻しており
陸上部の部員で2人日本一になった人がいたが
この2人には共通してることがあった。
それは「人間性」のどこかが欠けてる。
どこか非情なのだ。
感情の何かが欠落しているのだ。
だから2人とも
部員からもかなり嫌われていた記憶がある。
思いやりが1ミリもなかったり
心の奥底で「自分だけが良ければそれでいい」と
思ってる節を感じられるのだ。
その反面「勝利」に対しては誰よりも貪欲だ。
もちろん練習は誰よりもする。
加えて日々の生活の徹底ぶりも引くほどすごい。
体に悪いものは一切食べない。
自分で栄養管理もする。
365日22時には就寝。
しかも誰からも強制されずにだ。
二人とも大学時代に恋人はいなかったはず。
周りの部員からも信頼はない。
加えて驚くのが試合になった時の豹変ぶりだ。
まるで人でも殺すのかのような
殺気に満ちた目で
他の選手を押し倒してでも
自分の有利なポジションをとる。
かといってバカの1つ覚えのように
ただ進むだけではなく
まるで狩りに出かけたライオンが
獲物を密かに待ってるかのように
集団の後方でゆっくり息をひそめ
タイミングがくると一気に牙をむく
全員なぎ倒してでも
トップに躍り出る意思を感じられる。
どんな手を使っても
例え孤独になってでも「勝利」にこだわる。
しかし、その要素が魅力的なのだ。
2人とも他の人にはない
人を引き付ける魅力も同時にあった。
これがカリスマ性というやつかもしれない。
これが大学時代に
二人の日本1の選手を見て感じだことだ。
これはビジネスの世界でも
同じことが言えると思う。
どんなに綺麗事を並べても
日本は資本主義だ。
金を持ってる奴が勝者で、貧乏は弱者。
世の中は競争なのだ。
経営者にサイコパスが多いのは納得だ。
正直「成功者する男はみな非情である」
に書いてあることを全て実行できるやつは
サイコパスしかいないと思う。
資本主義の観点から考えると
僕は圧倒的な弱者だ。
人の心を1ミリも捨てきれていない。
情に脆くて
いつも人の事を一番に考え
自分が傷つき、損をする。
こんなの弱者に決まっている。
僕は弱いのだ。弱者なのだ。
今思うと僕は勝負ごとに弱かった。
陸上をしてたとき
別に大舞台で緊張してるわけでもないが
心の奥底で「ここまでして勝つ必要があるのか?」
そう思ってる節はどこかあった。
だからいつもラストスパートで負ける。
結局僕は県大会止まりの選手で終わった。
僕は競争の観点から考えていると
常に敗北者なのだ。
だから今の会社でも平社員のままだ。
頑張っても評価されるわけでもない仕事を
一生懸命やってしまう僕は正直バカだ。
成功者が僕を見ると
「なんでそんな無駄なことやってんだよwwww
バカじゃねーのw」とバカにされるだろう。
それだけ僕は弱い人間なんだ。
そうこの本から言われたような気がした。
しかし僕は人の心を完全に捨ててまで
上り詰めたいとは一切思ってないことは事実だ。
頂点に立てるのは1人だとすれば
周りには誰もいないという事と同義になる。
だったら僕はそんな金持ちにならなくても
人を思いやって、人のために涙を流して
人のために行動して、例え傷ついてでも
1人でも多く深い仲を築いていった方が
よっぽど幸せだ。
この本の印象的な言葉で
「幸福と富と健康を全て同時に
手に入れるなんてことはできない」
そう書かれてあった。
いつだって何かを得ようとすれば
何かを失うように世の中はできている。
だったら僕は幸福を選びたい。
例え社会からお前は弱者だと
揶揄されようと
俺は弱者のまま生きていく。
それが弱者ってことなら
俺はずっと弱者のままでいい。
そう思うと同時に
開き直ろうとも思ってない。
やはり「優しさ」というのは
時として自分も相手の身も滅ぼす
危険を秘めているものだとも同時に思う。
ダメ男に尽くしてしまう女の子が一番いい例だ。
尽くせば尽くすだけ男はダメになっていき
女は金銭的にも肉体的にも精神的にも
どんどん破滅の方向に向かっていく。
その子が心優しい心を持ってるのは
間違いない事実ではある。
しかし「私がそばに居てあげないと、、」
そう思わないと自分を保てない。
要するに優しさもエゴに変わってしまうのだ。
自分の自信の無さを埋めるための
道具に変わってしまうのだ。
僕はそれは本当の優しさではないと思う。
時には「切る」というある意味
「非情」の中にも優しさはある。
突き放した方がいい時もある。
心を鬼にしないといけない瞬間は
絶対にくるものだと思っている。
僕は今回の件を経て
「優しすぎる人」だということを
自覚してしまった。
だからこそ常に意識して
「非情さ」を持たなければいけない。
時には残酷な決断が
その人にとって一番いい選択だったりする。
その時は裏切り者と言われようと
悪者になろうと
振り返るとあれは愛だったと思えるような
そんな選択だってある。
だから僕は常に残酷な決断をする時は
「愛」を持って決断したい。
それが相手のためだと思って
心を鬼にして決断したい。
非情の中にも愛はある。
この本を読んでそう教えてもらったような。
そんな感じがしたんだ。