透明なかし
「雪が降る魔法って知ってる?」
「知らない。」
「てるてる坊主を逆さにすると、雨が降るっていうじゃない?そのてるてる坊主の中に、金平糖を入れておけば、雪が降るんだって!」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
家を出て5分と経たないうちに、背中からじわっと汗が出てくるのを感じる。自転車のペダルを漕ぐたびに、汗の出るスピードも加速していくように感じた。
両脇に大木が並ぶ道を駆ける。セミが地を揺るがすくらいの音量で鳴きわめいている。暑さがさらに増すように感じた。実際に、セミの鳴き声にはそういう効果があるらしい。
目的地である病院に着いた頃にはTシャツは背中に張り付くほどに濡れていた。自転車を止めて降り、タオルで拭いても気休めにしかならない。それに喉も大変乾いていた。
病院内に入ると、外よりは幾分涼しくて救われる思いだった。受付の人と目があったが気にせずに、まずはカバンから水筒を取り出し、勢いよく飲み干した。そして受付へと向かった。受付の人が全くみたことない人だったので、少し驚いた。
「面会希望なのですが。」
「何号室の方ですか?」
「203号室の岡田さんに会いに来ました。」
「かしこまりました、こちらの受付表に記入してお待ちください。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
と、事務的なやりとりを終えた後、待合室の席に座りタオルで汗を拭っていた。受付の方を見るといつものおばちゃんがさっきの人に僕のことを説明してくれてるみたいで、目が合うといつものように目を線にしてにっこりと笑いながら会釈してくれた。しばらくしたら名前を呼ばれ、面会許可がおりたので、受付の奥にあるエレベーターへ向かった。
これで彼女に会いに行くのは何回目だろう。1年前に初めて面会しに行った時とは違い、気恥ずかしさも、緊張もしなくなっていた。それからというもの毎週のように面会しに来ていている。彼女はいつも
「そんな会いに来てくれなくても大丈夫だよ。それよりも自分の時間取れてる?」
と言ってくる。
それを僕はきまって笑って流していた。
いつものようにドアをノックすると、はーいと返事されて中に入る。窓際のベッドからこちらを向いて小さく手を振る彼女がいた。
「また来てくれたの?自分の時間はちゃんとある?マサキがいなくても私は大丈夫だよ!」
「それなら、このユミが好きなバウムクーヘンは僕1人でいただきます。」
ずるーいと彼女が駄々をこねて2人で笑う。入院する前と変わらず、いや、2人が小さい頃から変わらない空気感がそこにはあった。ベッドに座っている彼女は日に日に痩せ細っていっていることがわかる。切り分けたバウムクーヘンもチビっと食べたきり、手をつけず脇に置いている。
彼女の担当医曰く数週間で彼女は自立困難になるらしい。それほど、体力筋力ともに磨耗しているのだ、と彼女の母から聞いていた。その話のことを聞いたのかは知らないが、彼女は相変わらず魅力的な笑顔で話している。思えば入院してから1度たりとも彼女の泣いている姿を見ていない。もっと言えば泣き言も聞いていない。いつも、笑いながら明日は、来週は、来月は…といった調子で未来のことに思いを馳せている。
「こんな暑い中ここまで来るのも大変でしょ?セミも運命の相手探しに忙しそうだし、本当、夏真っ盛りだね。」と頬杖を突きながら窓の外を見て、彼女は呟いた。
「その暑さも…忘れてしまったなぁ。」
僕が言葉に詰まっている様子を見て、神妙な顔持ちだった彼女が慌てて笑顔を取り繕った。
「まぁ、暑いの苦手だし、すぐバテるし、夏は嫌いなんだけどね。早く冬が来てほしい!担当医の方にも冬の初めなら気候も安定していて外出れるかもって言われてるの!そしたらどっか連れてってよ?」そう言いながら笑った。
いつものように雑談をしているとあっという間に面会時間が過ぎ、彼女は車椅子に乗って看護師さんとともに定時検診へと向かった。朝と夕の2回。僕はいつも夕方の検診前に面談に来ていた。でないと、そばにいたいと云う気持ちが抑えきれずずっとその病室に居座ってしまう。
診察室へ向かう彼女を見送り、帰ろうと病院の出口へ向かった。外は徐々に陰を延ばし、空も朱色へと変わっていく最中だった。相変わらず風は温く、乾いたはずのシャツが不快感を伴って背中にくっつく感触がした。今さっき、彼女と過ごした感覚をを回想しながら、自転車で長い坂道をくだっていった。彼女が入院した時から変わらずこの帰り道が嫌いだった。坂道を下りきってからしばらくして必ず寂しさに襲われる。いつも一緒にいたユミを奪われるかもしれない不安と絶望が日を背にして伸びる影として僕を追いかけてくる。
やはり彼女は歩けなくなることを聞いたのだろうか。今日見せていた憂いた表情は幼いころから一緒に過ごしていたが、初めて目にした。何を思っているのだろう。自分の現状をどう受け止めているのだろう。僕は痩せ細っていく彼女を見るたびに心をギュッと締め付けられるような痛みを感じる。
家に着き、自転車を降りた。日は完全に落ちて電灯の白々しい光で辺りが照らされている。玄関で靴を脱ぐとすぐさま二階へと上がりベッドへ直行した。部屋の明かりをつけることなく、そのまま布団に顔をうずめるかたちで眠りについた。
目が覚めるとまだ暗闇に包まれていた。 時計だけが無機質な音を立てている。
3時28分。喉が異様に乾いていることに気づき部屋を出た。
冷蔵庫から昨日買った1リットルの水をとりだし、そのまま勢い良く飲んだ。半分ほど飲み干したところで満足し、再び眠るために台所を後にした。
翌日、目が覚めた時はすでに昼を迎えようとしていて、いつもより睡眠時間が長いことから、自分が疲れていたことを実感した。シャワーを浴び、食べ物を漁るために再び台所へ向かう。母親がつくり置いていったおかずと、日光に晒されて、表面が溶けたのか袋へひっつく金平糖を見つけた。おかずよりも先に金平糖を手にとり、口に数粒を含む。懐かしい、素朴な味がした。よく彼女と食べていたあの味だ。
ユミは小さい頃から甘いものが好きだった。普段食べる量は人よりも控えめだが、甘いものに関しては別腹らしく、お腹いっぱいと言いつつも幸せそうにお菓子を食べるような子だった。それは最近も変わらない。入院してからあまり食べれていないのだろうか。バウムクーヘンも全然口にしていなかった。でも、金平糖のサイズなら食べれるのではないだろうか。少しベタついた金平糖が入った袋の口を折り、いつも持ち歩いている鞄へしまった。
それから色々身支度を整えてから朝食兼昼食をとり、今日は予定もなかったので、昨日に続き病院へ向かうことにした。
いつもと同じ靴を履き、玄関の扉を押す。隙間から日射しが僕の顔に向かってまっすぐに刺さってきた。暑さと共に肌が焼けるような痛さを感じた。気後れしつつも腹を決めて一気に扉を押し開け、外へ一歩踏み出した。
病院に着く頃には再び背中が蒸れていて不快だった。待合室に入り受付へ向かう以前対応してくれた人が僕のことを覚えてくれていたみたいでスムーズにユミとの面会許可が下りた。後ろの方にいたいつものおばさんと、目があったときにバツが悪そうに目を逸らされたことだけが気がかりだった。
いつも押すボタンを押し、エレベーターが上昇する。いつもと同じ通路を辿り、いつもと同じ病室の前に着いた。ドアをノックしようとすると、いつもとは違う、ピリッとした雰囲気を感じた。躊躇っていると、ドアが内側から開けられた。目の前に彼女のお母さんが現れて面を食らった。お互いに一瞬固まった後に状況を理解し、会釈を交わした。
「今日も来てくれたのね。ありがとう。ユミも喜ぶわ。」
「お母さん、お久しぶりです。僕がユミと話したくて来てるので、そんな感謝とかは。」
「彼女もいつもあなたとの会話を楽しそうに教えてくれるの。あ、そういえば、2人の時間の前に、少し私に付き合ってくれない?」お母さんは力なく微笑み、間髪入れず、
「ユミのことについて。」と僕にだけ聞こえるようにささやいた。
そのとき直感的に、いい話ではないことに気がついていた。ユミはこちらから目を逸らしていて窓の外を見ている。しかし僕は見てしまっていた。初めて彼女が目を赤く腫らしているところを。
一度、彼女のお母さんと待合室まで戻って、隅の方に腰を下ろした。
「いきなり本題だけど、ユミの状態が先生が予想されていたスピードよりも早く急激に悪化しているの。あのこは支えなしに立ち続けることができない。何かにつかまらないと歩くこともままならない状態なの。このままいくと今年の冬を迎えるのは厳しそうと…。先生が仰っていたわ。病室を移動することを勧められたのだけど、あなたとの面会が減るのが嫌だってユミがわがままを言っていてね。あなたもユミと同じ考えかもしれないけれど、どうか彼女を説得してくれないかしら。あの子の未来のためにも。お願い。」
「はい。」
「ありがとう。助かるわ。」
昨日のユミの感じからはまったく予想だにしない話を聞いて、頭が真っ白になっていた。しばらく沈黙が続いた後、お母さんは席を立ち、そのまま病院を後にした。
彼女の病室へ向かう足が重たかった。
再び同じ病室をノックすると、はーいと素っ気なく返事が返ってきた。ドアを開くとそっぽを向いたままの彼女がいた。こちらを向いてくれない。
「話聞いたんでしょ。なんて言ってた?」
「ユミの状態のことを聞いたよ。」
そう。とだけ彼女が言って長い沈黙が訪れた。
「私、どうすればいいのかな。もっと治療に集中できるところへ移動するべきなんだろうけど、マサキとは会えなくなるの。回復するまで。回復するかもわからないのに。いつまでかかるかもわからないのに。」
ユミは声を震わせながら勢い良く気持ちを吐き出した。肩が震えている。大きく呼吸をしたが嗚咽が漏れていた。
胸が締め付けられるような痛みを感じながらも、自分にできることがわからずただ、彼女の手を上から握った。目の奥からじわっと熱いものが溢れてくる。自分の肩も震えているのが気がついた。ユミも気がついたのかこちらへ真っ赤な顔を向けた。
「なんで、なんでマサキが泣いているの?」彼女の目から大粒の涙がボロボロと溢れ始めた。お互いになす術なく、声を上げて泣いた。
「ユミ、治療に専念しよう。会いに来る代わりに手紙を書くから。未来のために。」詰まりながらも、なんとか言葉にできた。自分の耳を通して聴く声は情けないほど、弱々しく震えていた。
「私、怖いよ。マサキがいないと不安だよ。どうしよう。会えなくなるのは嫌だよ。」気持ちの高ぶりと共に彼女はえづきながらもそう話した。
なぜ、僕の好きな人がこんな苦難を受け入れないといけないのだろう。そして、なんで僕にできることは何一つとしてないのだろう。
落ち着くまでだいぶ時間がかかった。夕方の検診時間が迫っている。気分転換にでもと、鞄から金平糖を取り出した。
「最近食べてないでしょ。これ。」
「うん。懐かしいね。」といってユミは目を細めた。
袋を差し出すと静かに首を振るだけで受け取ろうとはしなかった。一粒だけ取り、僕は口に運んだ。家で食べた時よりも少しだけ甘いような気がした。
そのまま言葉をあまり交わさないまま時間が来た。看護師さんが車椅子を押して部屋を出ていく。ユミの目線に気がついたのか、くるりと方向を変え僕の方へ向けてくれた。
「私、治療頑張る。だってマサキとこれからも一緒にいたいって思ったから。明日から、会えるかわからないけど、また来てくれる?」
「…もちろん。」自分から発せられた声が思っていたよりも小さくて、彼女にも聴こえたかは不確かだった。彼女は目を細めて笑った。そして片手で手を振り、またね。といって部屋を後にした。
僕は、無気力感に襲われていて、なかなか動けずにいるとその時、コトンっと音を立てて金平糖が床へ落ちた。
「雪が降る魔法って知ってる?」
「知らない。」
「てるてる坊主を逆さにすると、雨が降るっていうじゃない?そのてるてる坊主の中に、金平糖を入れておけば、雪が降るんだって!」
小さい頃に交わした彼女との会話を思い出した。あれはおそらく小学生低学年の時、冬が訪れ寒くはなったものの一向に雪が降る気配がせず、口を尖らせていた僕にユミが教えてくれたおまじないだった。早速、家に帰ってから金平糖を親にせがみ買ってもらった覚えがあるのだが、実際におまじないが効力を発揮したのかは覚えていない。
何か自分にできることをと、身体が勝手に動いていた。おまじないが本当に効くかは定かではない。ただなんでもいいから覚悟を決めた彼女のために行動したかった。こんなことしかできないけれど、もし、おまじないが叶ってこの真夏に雪が降れば、いや降らなくてもいい。彼女の苦しみが少しでも和らぐのなら、そうする他なかった。
溶けかけの金平糖の中から1番マシなものを選び、ティッシュに詰めて頭をつくり、上からさらに1枚重ねて、てるてる坊主を作り、身につけていたネックレスを紐がわりにして窓のカーテンレールに吊るした。しばらく、完成したそのてるてる坊主を見つめながら、祈った。奇跡を。