遅かれ早かれ死は訪れる。人生に意味は必要か?
https://aeon.co/ideas/sooner-or-later-we-all-face-death-will-a-sense-of-meaning-help-us
originally written by Warren Ward
「こんだけ医療技術は進歩したっていうのに」友人のジェイソンがよく口にしていた皮肉なのだが「死亡率は一向に下がらない。一人につき一回なんだ」
1980年代、私とジェイソンは共に医学を専攻していた。同学科に所属する同期と一緒に、在学していた6年間は人体に悪影響を及ぼす可能性のあるものをすべて覚えることに費やした。『ロビンス基礎病理学』という教科書には人間に降りかかる恐れのある病がひとつずつ詳細に記載されており、どうにか暗記しようと躍起になって取り組んでいたものだ。医学生が些細なしこり、瘤や吹き出物を見つけるたびに大病の前兆だとして大騒ぎするようになるのも無理はない。
彼の皮肉を聞くと死(あるいは病)というのは生きてく上で避けられない存在なのだと思い出す。しかし西洋では、あたかも死を克服したかのような錯覚に陥っているように思う。死や病から逃れるために何十億という金額を次第に高価になっていく医療設備や外科技術につぎ込んでいるが、それが役に立つのは死期の近づいた晩年になってからである。俯瞰して考えると、貴重な社会保障費の無駄遣いではないだろうか。
勘違いしないでほしい。私自身、癌や心臓病、大学時代勉強した命に関わるような無数の病に罹ったとしたら、効果がなさそうでも費用が嵩む処置だとしても手に入る物ならなんでも受けたいと思う。自分の命が惜しいからだ。正直な話をすれば、みなさんと同様に、私も自分の命が何よりも惜しい。と同時に、命が危険にさらされない限り、自身の命について本気で考えるようなことはしない。
友人のロスは大学で哲学を専攻していた。そして在学時に『死から学ぶ』というエッセイを執筆しており、私の死生観は彼のエッセイから大きく影響を受けている。人生を充分に享受するために我々にできることでもっとも効果的なのが、いずれ死が訪れるということを念頭におくことであるというのがエッセイの趣旨だ。
終末医療に従事していたオーストラリア出身のブロニー・ウェアは余命3ヶ月を迎えた患者と対話するときに、人生においてもっとも後悔していることは何かと尋ねていた。『死ぬ瞬間の5つの後悔』という著書の中で特に多く挙げられていたものが以下の通りである。
1.世間から求められている人生ではなく、自分の好きなように生きれたらよかった。
2.仕事以外にももっと時間を使えばよかった。
3.自分自身をもっと表現すればよかった。
4.もっと友人との繋がりを大切にすればよかった。
5.もっと自分のことを幸せにしてあげたかった。
死への認識と充足した人生との関係性はドイツ生まれの哲学者マルティン・ハイデッガーにとって中核をなす問題であり、ハイデッガーの論文は後にジャン=ポール・サルトルを中心とした実存主義者に多大な影響をもたらした。ハイデッガーは自身に正直に生きるのではなく‘世間’と足並み揃えて限られた時間を無駄にしている人が多すぎると嘆いていた。しかしハイデッガー本人にとっても自身の理想を体現することは容易ではなかった。1933年、ハイデッガーはキャリアを追い求めるがあまりにドイツナチスに入党したのである。
ハイデッガーは決してできた人間ではなかったものの、彼の思想は哲学者、芸術家、神学者など分野問わず多くの人に影響を与えた。アリストテレスの存在──2000年以上もの間、西洋哲学において脈々と受け継がれており、また科学的思考が発展したきっかけにもなった──という概念は根本的な欠陥を抱えているとハイデッガーは信じて疑わなかった。アリストテレスはこの世界に対する理解を深める上で、人類を含めた全ての存在は何らかの分類に属し、分析することのできる対象として考えていたのだが一方で、ハイデッガーは著書である『存在と時間』の中で、存在を分類していく前にまずある問いにたち返るべきではないのだろうかと主張している。「誰が、もしくはどんな存在がこうした問題を問うているのだろうか」
存在について問いかけている我々は他の存在、つまり岩や海、鳥や虫などといった存在を問われているものとは本質的に異なるとハイデッガーは指摘した。ハイデッガーは問いを投げかけ、観察し関心をもち続ける存在に改めて名前をつけた。現存在と呼ばれるその存在は簡単にいうと「そこに存在するもの」を指している。なぜ新たに造語作り出したのかというと、我々が「人」や「人間」や「人類」といった言葉に慣れてしまい、自身に宿る意識に対して疑問を一切抱かなくなったとハイデッガーは考えていたからだ。
ハイデッガーの実存哲学は、尊くも神秘的であり素晴らしい人生にある日突然終わりが来ると知りながら、他者を思いやる道徳性を科学で説明するのは難しいと感じる多くの人たちから現在も支持されている。ハイデッガーによれば死の必然性を悟ることで我々は、岩や木々とは違って、人生を充実したものに、人生の中に意味や目的や価値を見出そうと突き動かされるのだという。
アリストテレスの考えが基盤となっている西洋医学において、人体は綿密に調べ、他のものと同様に構成要素を細分化していくことで理解することのできる物質的存在と捉えられているが、ハイデッガーの存在論では、世界をに対する知識の中心部に人間の実存的体験を置いている。
今から10年前、 メラノーマと診断された。医者である私は、癌の一種であるこの病気がいかに素早く転移し人を死に至らしめるのかを知っていた。幸いなことに手術は成功し完治したと思われる。しかしそれとは別の意味でも私は恵まれていた。自分はいづれ死ぬのだということを実感したのだ。──仮にメラノーマに罹ってなかったとしても、結局は違うかたちで気付かされていただろう。この日以来、いままでよりも充実した日々を送っている。私にとって、いづれ死ぬという事実を理解し、受け入れ、自覚するということが、心身の健康において少なくとも医療の発達と同じくらい大切だ。というのも満足のいく日々を生きなければと奮い立たせてくれるからだ。ブロニーウェアが聞いた後悔の中でいちばん多かったもの、「自分の好きなように生きればよかった」と死ぬ間際に思うのはごめんだ。
東洋の哲学的言い伝えでは善い人生における死を認識する重要性を説いているものが多い。たとえばチベット死者の書はチベット文化においてなくてはならない書物である。矛盾しているように聞こえるが、チベット人は死と共に多くの時間を過ごしているのだ。
ブッダとも呼ばれる、もっとも偉大な東洋の哲学者ガウタマ・シッダールタは死を念頭に置いておく大切さに気がついた。彼はすべての苦しみは願望によって生まれるのだと考えており、世俗的な快楽に溺れるのではなく、それよりも他人を大切にするだとか、思考の平静を養う、現在に意識を向けるなどといったより人生において重要なものごとに注力せよと説いてまわっていた。
「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ」とブッダが入滅する前に彼の仲間に残した最期の言葉である。医者として働いていると、人体の脆弱さを日々実感させられる。日常のいたる所に死は潜んでいるのだ。それと同時に精神科医、精神分析学者として、意義や目的のない人生がどれほど空しいものになりうるか常に考えさせられる。逆説的ではあるが、死の必然性、かけがえのない人生の有限性を認識することで、私たちは見つけるように突き動かされるのだ──必要であれば自ら作り出すこともある──生きる意味を。