フイルムカメラと僕。
こんばんは。岩上魁星です。Kodakのフイルムがまた値上げですね。とてもショック。致し方ないことですけども。仮に需要と供給のバランスがフイルム全盛期に戻ったとしてフイルムの値段は安くなるのでしょうか。それとも新規事業が参入してきて安価なフイルムを生産するのでしょうか。ペンタックスのフイルムカメラ事業が頓挫しなければいいけれど。
フイルムが高騰しているからフイルム写真を撮るのをやめるのか。最近はずっとフイルムカメラで撮る意義を考えている。
プロでもないし趣味なのだから好きにすればいい。ただここに僕の写真に対する価値観が隠れているのだとそう思った。
はたして僕はなぜ写真を撮るのだろうか。写真に何を求めているのだろうか。撮る行為と、その過程、そして出来上がる画。僕はどこに重きを置いているのだろうか。今日はそんな話。
写真を撮る行為は僕にとって自己表現のひとつになっている。絵を描くよりも文にするよりも明確に自分のスキを表現できる。僕が撮った写真に映る世界は絶対的に正解なんだ。少なくとも僕にとっては。これは携帯で撮ろうとカメラで撮ろうと揺るがない部分だと思う。
では撮る過程はどうだろうか。デジタルとフイルムとでは大きく異なる部分だ。ただ再三記事にしているのでここでは多くを語るまい。
フルマニュアルのピント合わせから露出からすべて自分で決めて撮るのは楽しい。でもデジタルだって同じようにできるのも事実。Mモードを使えばね。
大きく異なる部分はなんと言ってもシャッターを切った後の動作だろう。撮った画をその場で確認できるかどうか。
出来あがる画に関してはそこまでこだわりがあるわけではない。フィルムで撮ろうとデジタルで撮ろうと一定以上の解像度があれば問題ない。
ここまで書いてみてやはり思うのが、フイルムで撮る過程の方が僕にはあっているのかもしれないということだ。
撮った写真をすぐその場で確認できるのは便利だと思う。なんか巻き上げの時変な音したけど問題ないかな…とか、ピント合ってるか不安になってきた…みたいなことを防げるのだから。
たぶん、ここが僕にとって違和感の感じるところなのだと思う。僕は写真が撮りたいのか?それともこの瞬間を撮りたいのか?
もちろん綺麗な写真、思い通りの写真を撮りたいと思う。シャッターひとおしでベストタイミングを収められるほどの技術はまだない。けれど、フイルムカメラを通して撮った写真はどれも紛うことなきその瞬間に向き合った写真なのだ。不可逆的かつ再現性の低い刹那的時間の流れの中で生まれた唯一の写真たちなのだ。
世間的には失敗と呼ばれるであろう写真がたくさんある。ピントは甘いし、主題ははっきりしないし、ブレブレだし。ただそれが僕の見てきた世界の断片的な瞬間だとすれば、それらの写真もまた“正解”だ。少なくとも僕にとっては。
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