親に勉強しなさいと言われるが、意義を見出せない。勉強とは自己を破壊し、再構築する。ヤバくてとことんいこう
予め、これは今の考えであり思考は常に流動的である。ー勉強することに対して、意義を感じないー(そういう人に向けて買いている。かくいう自分もそうだった)
勉強というのは今まで培ってきた経験、価値観あらゆるものを壊しいてく、いわば自己破壊=価値観の再定義であり、自己の再構築である。
昨今では自分の見たいものだけがレコメンドされ、自主的に学ぶ機会が減ってるように感じる。その結果、考えが凝り固まるんじゃないか、そのような経験もあるかもしれない。
著者の言葉を借りるならばメタ的でやばい過剰な空気の読めない勉強というのは(この意味としては、親は勉強しなさいと言われてやる)、空気を読んでほどほどの勉強留まる行為と対局にある。周囲からそれ以上の勉強は望まれていない。それはなぜか?周囲のノリから逸脱してしまうからだ。
しかし、果たしてそれが勉強と呼べるだろうか?
もっと言えば、自主的な学習にこそ生の営みを感じる。
ユートピアだ。
私の触感として勉学に対して窮屈さを覚えているのは、詰まるところ市井の生活と学問との乖離を見出せて脱却出来ずにいるせいでもある。
この処方箋として、学問領域と市井の生活や大学を開かれた場所にする、学者が積極的に実社会に目を向ける必要性を感じる。(あくまでこれは自分の感触なので、大いに異なるケースもあるだろう。有機的に捉えられてないだけかもしれない)
やはり自分は学問と日々感じてる時が、喜びを感じる瞬間だ。
これは音楽やアニメ、映画etcなどにも内包されるだろう。なんのことというと、こういった謂わばエンタメ、娯楽は常にマス=大衆を意識してる。その結果、現代、数年後のこう社会や価値観の拡張がなされたいと願いや祈りを内包してる。