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中学受験編

noteのネタに乗っかってみる。

私がした受験は中学受験と大学受験の2回だ。
中学受験は大成功、大学受験は成功といったところか。

中学受験編
小4から最寄りの駅前にあった日能研に通い始める。最初のクラスは上から2番目。
小4時のことはよく覚えていないがピアノや水泳もまだ習っていたはずだし放課後は友達の家に遊びに行っていた気がする。
小5から少し覚えている。小5の途中から1番上のクラスへ。塾に好きな女の子がいた。
小5から塾でのあだ名が「てんさい」になった。おかしなあだ名だが、「おいてんさい」「てんさいちょっと待って」「てんさい一緒に行こう」など普通にあだ名だった。
 日能研は今でもそうだが小5(小4?)から毎週日曜日にテストがあり席は左前からそのテストの成績順だ。またずっと左前の席をキープしていると一つ上のクラスへ上がれ、あんまり後ろの席ばかりだと一つ下のクラスに下がるというなんともスパルタなシステムだ。
 私の通っていた校舎は確か7クラスあった。下から5.4.3.2.1.栄冠1.栄冠2(確か)。
 小6になると栄冠2の前の方の席をキープするようになった。また当時は全国約9000人の日能研生の1位から800位くらい(うろ覚え)の名前がランキング形式で載っている冊子が毎週配られて、1位〜10位は表紙に漢字で大大と、50位までは漢字で、51位以下はカタカナで名前が載っていた。個人情報もなにもないので今はなくなったが。
 私が漢字で載ったのは一度で、38位くらいだったと思う。常に150位前後をキープしていた。いつも表紙に名前が載っている人は有名人だ。
 ちなみに私の中学受験は親の手を一切借りていなかったそうだ。塾の帰りが遅いから母にくるまで迎えに来てもらったりはしていたが、勉強は父母とも全くみていなかったという。母曰く、一人で日能研の莫大な教材から、ここはやる、ここはやらなくていい、などとやっていたらしい。全く覚えていないが確かに言われてみれば父はもちろん母と問題を解いたなんてことは記憶にない。
 また、日能研独自の日曜日の出題範囲が決まったテストの他に、小6になると3ヶ月に一回くらい、全ての範囲から出題され、また誰でも受けられる公開模試というテストがあった。今も名前変わらずやっている。公開模試の成績が真の実力といえるのだが、私は公開模試の偏差値は66〜68くらいだったと思う。勉強は全くみていなかったが、志望校はたぶん母が決めた。いや、両親と塾長が相談したのかもしれない。とにかく私は特に行きたい学校はなかった。ただ開成は無理そうだと感じていた。開成は日能研偏差値70だ。
 結局、2/1駒場東邦第一志望となった。当時駒東は御三家ながら凋落していた武蔵より難しく麻布の次くらいかといったイメージだった。日能研R4偏差値は65くらいだったのでまあ受かるだろうと思っていた。夏期講習などで志望校別に校舎をまたいで特訓のようなものがあっらたが、そこでは1番勉強ができたので安心していた。
 結局受験本番直前1月まで栄冠2の座席一列目キープで安心した気持ちで2月1日を迎えることとなった。
 他の受験校も親が決めた。私は勉強にしか興味がなく受験校はどこでもよかった。結局2/1駒場東邦、2/2攻玉社、2/3筑駒、2/4芝、2/5暁星(芝と暁星逆かも)となった。
 駒東は2/2に結果が出るのと筑駒と校舎が隣接しているからか駒東/筑駒併願は開成/筑駒併願の次に多いらしい。
 受験本番のことはよく覚えていないが、攻玉社がボロすぎて絶対嫌だと思ったこと、筑駒の算数が4割近く白紙だった気がする。
 2/2攻玉社の本番後駒東合格の知らせがきた。よく覚えていない。
 筑駒合格発表は覚えている。両親と3人で筑駒まで行き、掲示板を見て自分の番号を探す。あった!
 父「受かっちゃった」
 こうして私の中学受験は大成功に終わった。

 

#こうして私は受験を乗り越えた

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