依存しすぎないこと
以前、とあるお医者さんがこんなことを言っていた。
「人間関係は、多元的依存が良いんですよ」と。
一人の人間に依存しすぎるのではなく、
かといって誰にも依存しないのではなく、
依存先が複数あること。
これはすごく腑に落ちる言葉だった。
仮に、恋人に100%依存していて、何かのきっかけで別れることになったとする。
その時、依存先を失ったその人は気持ちの行き場を無くす。
そうならないためには、恋人への依存度が70%で、頼れる友人には30%。・・そんな風に、分散先があるといいのだという。
実際には人はもっと広い社会に生きているから、恋人50%、友人20%、親20%、職場の人10%…なんていう風に、依存先が細分化しているのだろう。
世の中では、依存しないこと=自立 と思われているかもしれないが、人間そんなに強くない、と私は思う。
誰にも少しも依存しないことは、むしろ「孤立」しているような気がする。
数々の推し活をしてきた私として、この「多元的依存」の概念は、当然推し活にも当てはまった。
例えば、マイケルジャクソンが好きだった大学生の頃。
ある朝飛び込んだ、突然のマイケルの訃報。
それはもうショックで、大学までどうにか辿り着いたものの、涙は止まらないし、どうにも身が入らず早退することにした。
まだ20歳くらいの時―死が身近に感じられなかった頃―に起こったことだったから、余計にショックだったというのもあると思う。
当時、マイケルジャクソンといえばメディアに変人扱いされていた。
同世代のファンは数少なかったし、同世代に限らず、ファン同士の交流は限られた機会に留まっていたと思う。
とはいえ、マイケルはまぎれもなく80年代を彩ったスーパースター。
彼の訃報を受けて、当時(80年代)のファンたちも再びファンダムに合流し、追悼集会やイベントが開かれるようになった。
さらに、マイケルが行う予定だったコンサートのリハーサル映像を映画化した「THIS IS IT」の公開も、その盛り上がりに拍車をかけた。
私もその頃、一気にマイケル好きの友人が増えた。同世代も、一回りも二回りも上の人達も。
マイケルのどんなところが好きか、どんな活動を素晴らしいと思うか。夜を明かして語り合うくらい、楽しかった。
今振り返って思えば、あの人達と過ごした日々があったから、マイケルの死を受け止めることができたのかもしれない。
さて、ただの一例に長々と文字数を使ってしまった。
つまりは、「推し」そのものに依存しすぎるのではなく、
周りの環境(ファン友達など)を含めて推し活を楽しむことを全力でおすすめしたいな、と。
少し冷たい言い方になってしまうけど、「推し」はあなたの人生そのものではない。(当然だけど、あなたの人生の責任を取ってくれるわけでもない。)
私やあなたの人生を彩ってくれる最高の存在であるけど、
推しがいつまでその活動をしてくれるか、もっと言えば元気でいてくれるか、それは分からない。
だけど、推しを通じて得た人間関係は、互いに望む限りは続いていくだろう。
得られるのは人間関係だけじゃない。
例えば、推しに会うために高めた美意識やメイクのテクニック、カメラの腕前や、体力だって。
いつの間にかあなた自身の財産になっていることに、目を向けてみてほしい。
いつかその推し活を辞める日が来たとしても、財産はあり続ける。
ここからは余談だけど、私は常に複数「推し」がいる状態だ。
アーティスト、俳優、お笑い芸人・・・好きな気持ちに順位はつけられない。
だけど、時々優先順位はつけざるを得ない。金銭的にも、時間的にも。
そういう面で、一途に何かを推している人には敵わないなぁ、と思う。
ただ、自分の人生にはそれが合っていて。
こういっては何だが、複数の推しがいることは、色々と都合が良い。
しっとり音楽を聴きたい時は、アーティストの推しへ。
お芝居にどっぷり浸かりたい気分の時は、俳優の推しへ。
寄席で楽しい気持ちになりたい時は、お笑い芸人の推しへ。
気持ちのベクトルを向けている。
なんだかただの浮気者の発言だなーと思うけど(笑)、
今はそのくらいのライトさで、人生楽しんでいるのが自分らしい。
もちろん、現場に行ったら100%没頭してますよ!
推しのことは、自分の人生の中のひとつの宝物として、大切にしたい。
その宝物に力をもらって、人生そのものを輝かせていけたらいいな。
そう思っています。
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