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「小説 名娼明月」 第19話:お秋の旅立

 熟考すること、やや暫くにして、窪屋一秋は郷里に残し置いたる娘お秋のことを思うて、

 「そうだ! わが娘こそ、川口の難役に当たる適任者であろう!」

 と気づいて手を拍(う)った。
 そうして、すぐにこのことを七里三河守に諮(はか)り、お秋のことの一通りを説明すると、三河守も大喜びである。

 「急がずば石山城兵は飢えるであろう。迎いの者を誰彼と選ばんよりは、貴殿ご自身に、ご苦労を願われますまいか」

 との三河守以下諸将の懇望に、一秋は、再び生きて帰らじと心に誓い来たりし身ながら、

 「これも味方の危急を救う一助である。かつは諸将の懇嘱辞(いな)まんに言葉なく、さらば、今より出発いたすべし」

 と、一秋は一艘の小舟に八挺(ちょう)の櫓を掛けて、東雲(しののめ)告ぐるころ漕ぎ出せば、船は矢よりも早く海面(うなづら)を駛(はし)って、早や播州室の津の港も後に消えてしまい、その日の夜半(よなか)ごろ備前児島の入江なる天城(あまぎ)の岸に着いたのである。
 これより先、一秋は、石山より芸州毛利家へ赴く途中、備後の鞆の津(とものつ)船繋(ふながか)りしたのを幸い、故郷なる備中西河内へ飛脚して手紙を送ったことがある。阿津満お秋はこれを見て喜ぶこと一通りではない。まるで死んだ者にでも逢ったような心持ちであす。

 「この手紙の模様をもってすれば、今度は芸州から大阪へ帰らるる道々、備前の港々へ寄りたまうに相違ない。
 金吾殿は九州へと出て行かれたるまま二年を経った今日まで帰り来ぬばかりか、生死のほどさえ確とは判らぬ。もはや広き天下に我等母娘が手寄(たよ)るべきは、一秋殿ばかりである。
 とにもかくにも、今一度一秋殿に逢って、家(うち)の容子の委細を話し併せて、その後の一秋殿の御模様をも承らば」

 との母阿津満の言葉に、お秋もそれと心つき、

 「母上お一人を馴れさせたまわぬ旅に立たせんよりは、妾(わたし)もご一緒に御伴(おんとも)申し上げよう」

 と心に定め、ここに母娘は、いよいよ備前へ旅立のことを決心したのである。
 されば時を過ごして父上のお船に後れてはならじ、と母娘(おやこ)は、いよいよ備前へ旅立のことを決心したのである。

 「されば、時を過ごして父上のお船に後れてはならじ!」

 と母娘はすぐさま旅立ちの用意を整え、いざ出発というその朝になって、阿津満は持病の頭痛が起こって、寝付いてしまった。
 お秋の心痛、阿津満の落胆、よその見る目も気の毒である。
 しかし、母上の病気の癒(なお)るのを俟とうとすれば、父上の船が大阪に行ってしまう。もはや片時も猶予はできぬと、お秋はか弱き娘の身ながら、雄々しくも心を決し、下僕要助一人伴に連れて備前へ旅立つこととなった。
 病みし母が寝床から縁端に這い出で来て、見送ってくれたのを見たお秋は、門を出る足も進みかねて、二足三足ためらったが、また気を取り直し、思い切って出ていった。
 水無月の空には焼き付くるような日が烈火のように照って、道行く人は、美しきお秋の旅慣れぬ、痛々しい姿を振り返り振り返りして行った。
 父を想えば暑さも消える。決心固めしお秋の心は、ただ父を思う一念に凝り固まって、燃ゆる人のようである。
 
 「どんなことがあっても父の船に後れてはならぬ!」

 とお秋は伴の下僕要助を励まして、その日のうちは八里を歩いて庭瀬の宿まで行った。
 お秋が旅籠の湯に入って暫く旅の疲れを慰めていると、要助が次の室(ま)から入って来て、お秋の前に手を突いた。

 「ただいま当家の主人より承りますれば、備前の白石より明朝未明に、牛窓通いの船が出まする由(よし)。
 今日の炎暑の長途に、旅に慣れたまわぬ身の、さぞかしお疲れのこととは存じまするが、ここより白石までは三里にも足りませぬ。
 今夜夜の明けぬ間に白石まで行かれまするならば、明日の暑さは船の中で凌いで、いながらに牛窓へ着きまする。
 わけて、今宵は月も出て風さえ吹いておりますれば、微塵も暑いという心配はござりませぬ。いかがなものでござりましょう?」

 との忠義なる言葉に、一刻も早く父に逢いたい思いのお秋は、すぐとそれに同意し、容易もそこそこに庭瀬の宿を出たのは八時過ぐるころであった。疲れし足を引きずり引きずり行くお秋の悩ましげなる姿を、月は詫びしくも照らした。

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