「小説 名娼明月」 第69話:因果の諦め(前)
「これより、暇あるごとに当寺に詣でたまわば、女人成仏(にょにんじょうぶつ)の法話も叮嚀(ていねい)にいたすべし。
そもそも、そなたは、いずこの人にて、いかなることより、可惜身(あたらみ)を川竹の流れには沈めしぞ? 懺悔も、罪障消滅の一端なれば、一通りを物語りたまえ」
と、正海上人から問われて、お秋は些(すこ)しも秘(つつ)まず、
「私は、もと備中窪屋郡西河内(くぼやのこおりにしかわち)の生まれ、父は與次郎一秋と申し、過ぐる年、石山本願寺勢として、大阪川口にて、織田勢と戦い、討死(うちじに)いたしました…」
と語り、なお話を続けんとせしを、上人は、
「霎時(しばし)!」
と制し、明月の顔を、つくづくと眺めた。
「なに? 與次郎一秋殿のお娘とや! さらば、そなたは、お秋どのには候(そうら)わずや?」
と訊かれて、お秋もびっくり!
「いかにも、妾(わたくし)は、お秋と申しまする」
と言って、上人の顔をしみじみうち眺めて、さらに驚いた!
この正海上人こそ、あの、七里三河守(しちりみかわのかみ)である! かつて本願寺勢の大将として織田勢を恐れしめ、父一秋とともに、大阪川口の難を破りて、味方の飢餓を救いたる、七里三河守である!
明月は、自ら女郎に扮して、織田勢を欺きたる当時を想い出し、正海上人の顔を茫然と眺め、余りの奇縁に驚いて、言う事を知らずにいると、上人はやおら、膝を進めて口を切った。
「もはやお判りであろう。それがしは、昔の三河守法橋順宗(みかわのかみほうきょうよりむね)、今更(あらた)めて、七里正海、その当時、和女(おんみ)の父上、與次郎一秋殿の誉ある討死は目の当たり見て、よく承知仕(つかまつ)る。
さは云え、母人(ははびと)もあるべきに、昔に変わりしその姿は、いかなる理(わけ)ぞ? 窪屋の荘にその人ありと知られたる一秋殿の愛娘たるべき人が、柳町の遊女となるには、よくよくの事情ありてのことと思わる。苦しからずば、その事情を語りたまえ。時宜(じぎ)によりては、お助け申すべき術(すべ)もあらん」
と云われて、明月は堰(せ)き上ぐる涙拭いもあえず、
「実に変わり果てたる私の身の上、貴僧の御目の前に、ただ坐してあるさえお恥ずかしき次第。この上に、過ぎ来し方を語るは堪え難きこと。
せっかくお助けくださるものならば、未来のお救いがお願い申しとう存じまする」
と言って、明月は泣き伏した。
さまざまの思いに、明月の胸は掻き乱れて、涙は胸を破りて溢れるかとばかり。