「小説 名娼明月」 第27話:お秋の手柄
更けゆく夜は二時に近い。織田勢の夢を載せたる安治川は、音もなく流れて、天も地もただひっそりと鎮まりかえっている。
お秋は船の上に立って、前後を注意深く見廻した。目覚めた番兵もおらぬらしい。これ幸いと船から岸に上がれば番所がある。そうして番所の壁に大事な鍵が懸けてある。お秋はこの鍵奪い取るが早いか、岸に戻って、石崖の下を透かして見た。
「確かに鎖の錠がある! わが外さねばならぬは、この錠である!」
と、お秋は、敵の警備の篝炬(かがりび)が消えかかって朧げなるを幸い、独り窃かに頷いて、石崖を下りかけたこの時、霹靂一声、
「そこに下り行くは何者であるか!」
と怒鳴った者がある。敵の番兵である。
お秋が慄(ぎょっ)として見返ると、酔っ払った番兵が一人、こちらを睨んでいる。
と見る間に、たちまち、お秋の顔に溢るる愛嬌の焉笑(わら)い、躯に艶めかしい嬌態(しな)を作って、お秋は軽く番兵のところに駆け寄って、莞爾(にっこ)とした。
「無理に強いられし御酒のために、寝ていること苦しき余り、われ船に移りて休まんと思い、帰りかけしところ、見まいらすれば、貴方様も御酒を過ぎさせたまいしご様子。妾(わたし)と一緒に船に来て、沖の風に涼みたまわぬか?」
との滾(こぼ)るるばかりの愛嬌に、番兵はたちまち有頂天となってしまった。
「和女(そち)はいずれの陣屋におりしか? 数多き今夜の酌婦の中に、和女ほどの美女ありしか? さらば、一緒に船にて涼まん!」
と、番兵はお秋の手を取り、自分の肩に縋(すが)らせて、共に岸より船に下り、お秋の方に右手を掛けて他愛もない。
お秋は心の裏に笑いながら櫂を握(と)った。お秋は、番兵の目を醒まさじと、静かに櫂を操って、三河守の船へ漕ぎ付け、竊(ひそ)かに斯(か)くと味方に通ずれば、たちまち船頭姿の勇士三四人が船に飛び移って来て、夢半ばの番兵を綱で固く縛り上げ、露の滴るばかりの刀を目の前に突き付けた。
驚いたのば番兵である。手足も動かぬように縛られているのに驚いて声を立てようとすると、目の先には数条の刀がひらめいている。
「声を立てたら首がないぞ。今吾々が尋ねること一々を白状したらば一命は援(たす)けてつかわそう。安治川口には幾筋の鎖があるか? この鍵一つでどの鎖の鍵も開けられるか?」
と問い詰められて、番兵は一縮みに縮み上がった。
そうして、鎖は最初五筋であったけれども、今は自分の受持の鎖一筋になっていること、及び、この鍵がその鎖を開ける物であることを白状に及んだ。
「もうこれで大丈夫である!」
と、三河守はすぐに使いを飛ばして、この旨を尼崎沖の兵糧船に急報した。
「それ! 出陣だ!」
と、まず百余艘の兵糧船は、勢いよく川口に向かって帆を上げた。こんなよい機会はまたと来ぬというので、残りの船も同時に勧めることとなり、かくと通ずれば、数百艘の兵糧船はすぐに後に続いた。
船体川口を掩(おお)い、堂々と進んで行く。
三河守は、勇士三人に命じ小舟を操らせ、難なく鎖を外したとの飛報を後から続く船々に伝えると、いずれも元気が百倍した。
舳艫(じくろ)相銜(あいふく)んで七百艘の兵糧船のうちの五百艘が事無く進んだころ、東の空はようやく白く明けかかった。織田勢はなお夢の中にある。三河守は五百艘の無事に進んだ後、夜の明くるを俟(ま)って、三百の遊女を一人残らず迎えの船に乗り移らせた。また一秋は、お秋に将来の事など漏らさず言い聞かせ、手柄を賞し労を慰めて、遊女と一緒に帰らしめ、その日の昼ごろ、残る二百艘兵糧船に、進軍の令を伝えた。
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