「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅
広き天地の間にただ一人取り残されしお秋は、母を失いし嘆きの涙の裡(うち)から雄々しくも奮い立った。
今日を限りと思えば、お秋は朝から母の墓に詣でた。草花手向けて墓前に叩頭(ぬかづ)けば、さまざまの思いが一時に胸に罩(こ)み上げてきて、涙は墓前の赤い土を濡らした。さすがに勇ましい決心も、母の墓前にあっては、一個の弱い女である。悲しい思い出の数々、母についての記憶のさまざまが、一緒に雲のように湧いて千々(ちぢ)に乱れる。
お秋は、母の墓に対し、生ける者に物言うごとく己の決心を語って、また、ひとしきり涙を流した。
「何の所縁もなき、かかる他郷の地下に、母上を置き去らんこと、本意なき限りではあれど、他日良人(おっと)を捜し当てて、首尾よく帰郷せん日は、必ず母上のお墓も移し参らせんほどに、まずそれまでは…」
とばかり立ち上がれば、墓に心の残って一歩も進まぬ。
「今より自分は良人の跡を尋ねて旅に上る。案内も知らぬこの広き九州に良人はありとも、はたして首尾よく捜し当て得るや否や?
もし不幸にして捜し当て得ぬその際は、五年が十年でも旅を続けよう。生きて甲斐なき命、古郷に帰っても何の楽しみもなき身。むしろ生命(いのち)のあらん限り良人を尋ね続けて、草深きこの九州に埋もらんとも、露(つゆ)憾(うら)みなき身である。
さらばまた、いつの日か、再びこの墓に巡り来て、地下の母上と語ることができるであろうか?」
と、お秋は、墓の埃を払ったり、草を採ったりして別離(わかれ)を惜しんだが、
「思えば、自分は一刻も早く旅に出ねばならぬ身である!」
と、思い切って立上がった。
そうして、見返りがちに墓前を去って、わが家へ急いだ。
お秋は帰るとすぐに、自分の決心のほどを亀屋の主人(あるじ)夫婦及び長屋のおかみさんたちに打明けて、訣別(いとまごい)を告げた。皆びっくりして、断念させようとした者もあったけれども、お秋の決心の動くはずはない。
長屋の者は別離(わかれ)を惜しむの余り、
「今日一日だけ、出立を見合せて、名残を惜しましてくれ」
と云って訊かぬ。
お秋自身にとっても、永い間滞在し、かつ母を埋めた地である。名残もあれば、追憶(おもいで)もある。とうとう言わるるがままに、一日を暮し、翌朝明くるを待って旅装を整え、かつて芸州玖波(げいしゅうくば)の駅(しゅく)を出でし時の姿をそのままに巡礼姿となり、長屋の者に見送られて出で立たんとする時、亀屋主人夫婦が駈けてきて、旅中に入用の品々を送り、なお旅金の足しにせよと言って、若干(どれだけ)かの金を包んでお秋に渡した。
お秋は涙ながらに押し戴き、故郷でも離るるような心持ちで、見返り見返り踏み出し行くを、長屋のおかみさん、婆さんから子供まで、眼に涙を湛えて、お秋の姿の見えるまで見送った。
今にも降り出さんとする雪曇りの空は、一層の憐れを添えた。
お秋は、小倉の城下を尽頭(ではず)れたところから、今一度、母の墓のある方を向いて、手を合わせ、別れを告げた。出で行く先は肥前龍造寺の領、そこに尋ぬる良人あるべしと思うからである。
◇◇◇
伏丘金吾は、過ぐる天正元年の春、父の仇なる矢倉監物の行衛(ゆくえ)尋ねて、備中玉島の屋敷を去るや、夜を日に次いで、肥前龍造寺の領まで行ったが、隆信の城下も狭くはないから、金吾は捜すのに、なかなか骨が折れる。
浪人体に打扮(いでた)ち、編笠(あみがさ)に面(おもて)を隠して、六十余日が間を捜し廻ってみたが、何の手係もない。
「とはいえ、監物は必ず一度はここに来ているはずである。今なおここに隠れているか、但しはこの地を去ったということを突留めるまでは、軽々しくここを去ることはできぬ。なおこの城下の隅から隅まで捜さねばならぬ」
と、金吾はさらに勇気を鼓して、今までよりも一層広い範囲のさまざまな方面に手をつけて捜しかかった。