「小説 名娼明月」 第21話:怪しき漁家
「家来の身として主人を恋いする不届者め!」
と、怪しの武士は、要助を刀の下げ緒で縛り上げて、お秋の方に向き直り、
「女性の身もて、この深夜にどこまで行かれまする? かく申すそれがしは、芸州毛利家の臣。主君の急用を承って、摂津の国まで罷り越す者。さしつかえなくば、これよりご同道いたしまするでござりましょう」
との優しき言葉に、いままで山賊なりと思い込みおりしお秋は、かつ驚き、かつ安心をして武士の前に頭(かしら)を丁寧に下げた。
「すでに危うきところをお助けくだされ、なんともお礼の言葉もございませぬ。妾(わらわ)は仔細ありて、備前牛窓の港まで参りますもの。これより不案内の道の一人旅、さぞな心細かるべきに、もしご同道していただくことが、相叶いますれば、この上なき仕合せに存じまする」
と、意外なところで意外の味方を得し喜びに、お秋が覚えず立ち上がれば、武士はしきりに頷いて、親切らしく先に立った。
小松山を過ぐれば、すぐにお秋が目差す白石なれども、どういうわけか、その武士は、わざとお秋を岐路(わかれみち)に案内して、その夜も明けんとするころ、天城というところに連れて行った。ここは児島湾の西岸にあって、一の島のようなふうになっておる。左に今保辰巳の浦々右に藤戸北浦の浜を控え、じつによき眺めである。住民といっては魚家四五十軒、それも四五軒ずつが一団(ひとかたまり)となって、飛々(とびとび)になっているから、淋しいことはこの上ない。
武士は東岸なる、ある船頭らしき一軒の家の前まで来ると、
「牛窓に渡らるるには、ここからば一番の便利」
であると言って、お秋をその戸外に待たせ、自分はツカツカとその家の中に這入って行った。
お秋は海岸の岩に腰うち掛け、ほのぼのと明け離れ行く遠近(おちこち)の景色を、心ゆくばかり見入っていると、家の中から船頭の女房らしい女が、小股走りに出て来たり。
「いまのお武家のお連れの方と申すは、あなたさまでござりまするか? まもなく牛窓への船の艤装(したく)もできまするほどに、それまで、むさくろしけれど、家(うち)に這入りて休ませたまえ。お気にはめさずとも、朝の物をもさしあげましょう」
との親切なる言葉にお秋は喜んで、その女房の後について家の中に入った。見るも不快なる荒破家(あばらや)で、畳はちぎれ壁は落ちている。
お秋は、別室よりしきりに呼ぶ最前の武士の声に応じて上がってみれば、どこまでも丁寧なる言葉の武士は、懇(ねんご)ろにお秋を劬(いたわ)ってくれた。
その語るを訊けば、
「今船頭に牛窓行きのことを相談してみたけれど、潮の都合が悪いために、今朝の出船はいたずらに海中に時間を取るばかりである。それで、ただいま漕ぎ出(いず)るも、今日夕方出船するも、牛窓の港へ着くのは、同じく明日の夜明けごろである。手前も火急の君命を帯びたる身であれば、しばらくの猶予もできぬ。
けれども、さればとて、今から陸路(くがじ)を歩けば、明日の夕方でなければ牛窓へは着かぬ。ことに旅に馴れたまわぬ御身と一緒であれば、明後日(あさって)の朝あたりにしか着かれぬと思う。それより、しばらく当家にあって、昨夜の疲れを安め、晩景より漕ぎい出るほうが得策であると存じます。御身のご所存、如何?」
と訊かれて、お秋は父親のことが気にかかって、気は焦れども、まったく不案内の旅であれば、武士の言葉に従うより他に道はない。万事武士の意見に従い、女房の勧むる朝餉(あさげ)の膳について、ようやく一椀を喰(た)べた。