「小説 名娼明月」 第23話:逃走の夜
水汲み来たりし女房は、眉顰(ひそ)めたる顔容(かおつき)を見て、もしや、こちらの計略(たくらみ)を悟られたのではないかと思ってハッとしたが、またすぐと何気なき体を装い、
「お顔色悪きは、ご気分にても勝(すぐ)れたまわぬか?」
と訊いた。
お秋は、これを好き機会と思ったから、いっそう眉を顰めて、悩ましげなる顔容(かおつき)を作り、
「妾(わたし)には脳の持病ありて、一度起これば十日、二十日も寝続くるが常。このほど少しく壮健(たっしゃ)になりしを、幸い馴れぬ旅を思い立ちたるところ、二昼夜歩き続けたるゆえか、今朝より脳に痛みを覚えて、次第に酷くなりまさる模様である。今夜の船には、到底乗れそうにもない。
これがために、つれのお武家に離れねばならぬこと、心細き限りであれど、どうとも仕方はない。ここ暫くは、ご当家に泊めてもらって、ゆるゆる養生がしたいゆえ、その儀よろしくご主人へご相談を頼む」
と、絶え入るばかりに語って枕に臥した。
女房は、お秋より詐(あざむ)かるるものとは露知らず、すぐさま勝手元に行って、このことを話せば、はたと困ったのが管六である。真実病気であるからは、無理に引き立てて連れ行くこともできず、たとい十日や二十日の養生は良い事としても、自分は曩(さき)に主君の急命を帯びて使いする武士と語っておいた。急用ある武士が十日二十日の滞在は、事露見の始まりである。されとて主人藤太にこの大事な玉を任せて行っては、またどんなことされるかも知れぬ。
これは下手なことをして彼(あ)の女に怪しまれんよりは、今夜出帆すると見せかけて、この附近の家へ留まることとしょう、と悪漢相当の考えを極(き)めて、これを藤太夫婦に打明け、お秋に向かっては、
「実は、ご全快までご介抱いたしたいけれども、急ぎたる主命を帯びたる身なれば、是非に今晩出船いたすゆえ、ご養生専一に」
と別れを告げて、黄昏ごろ藤太の家(うち)を立出で、かねて知り合いなる附近の何某(なにがし)の家に泊まった。
お秋は寝たまま二十日を暮らしてみたが、なかなな逃れ出づべき道がない。いつまでこうしていても際限はない。もはや父上の船は大阪へ去りしにはあらざるかと想えば、なおさらじっとしてはおられぬ。
今日は、ちと気分がよいとて、朝早くから起きて、
「寝てばかりいるは、かえって逆(のぼ)せ上がる模様なれば、ちとそのへんを歩きたいゆえ、勝手がましき願いながら、一緒に連れ立ちてくれたまわぬか?」
と相談をすると、女房も快く承知し、それでは暑くならぬうちにと云って、すぐにお秋を連れて出た。
お秋は女房と一緒に、天城の村中をあちらこちらと歩き廻ってみたが、どっちに行くにしても船がなければ行けぬらしい。
そのうちに、「猪の鼻(ししのはな)」という岸は、向こうへ渡るのに海の幅も広くない。かつ水際には幸い小舟も繋(つな)いてある。
「今夜忍び出たらば、ここから押し渡るに越したことはない! 海近いところで育ちしため、櫓も四五町ぐらいは漕げる! まして一町にも足らぬ狭所(せまどころ)である。ここ渡るぐらいは何でもない!」
と、お秋はひさしぶりに大胆な心になり、独り頷いて家に帰った。騒ぐ胸を押えて、日影の移り行くのを見て暮らしたが、昨日に引換え、今日の日の長いこと。
日は暮れた。七月七日の月は南に掛かって涼しい風が海から吹き渡って来た。主人の藤太は夕餉の膳に一杯過ごして、早くも蚊帳の中に大の字となって高鼾(たかいびき)である。女房も気分が悪いと云って、いつもより早く蚊帳の中に入った。
お秋の胸は躍った!