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「小説 名娼明月」 第31話:旗亭の二階

 「そういうお前は要助ではないか!」

 と驚いて立停(たちど)まる和平次を、要助はニヤニヤと笑って側に歩み寄り、急にしょげこんで、殊勝らしい顔を作った。

 「俺の不所存のことは聞いたであろう? のう和平次、あんなことをしでかしたのも、ほんの一時の出来心からじゃ。後から思い出してみれば、ただもう恥ずかしくて生きてもおられぬ心地、いまさら奥様やお嬢様にお目にかかれる義理ではなけれど、一度はお逢い申して、今の自分の苦しい心をお二方に申し上げた上で、打つなり殺すなりお心の癒えるまでのことをしていただこう。と思って、西河内のお屋敷を伺ってみれば、一昨日九州へ向けてご出立(しゅったつ)あそばされしとのこと。やれ残念とすぐに駆け出してお跡を追いまいらせ、今朝ようやく広島で追いついて、お二人のお姿を見かけはしたが、あまりの恥ずかしさに自分で顔出しもならず、機(おり)があったら、お前に頼んでお詫びをしてもらい、幸いお怒りが解けたらば、元々通りの身になしてもらい、精神(こころ)を入れ換えて仕えようと思い、今朝広島から見え隠れに、ここまで躡(つ)いてきたり、お前の外出(そとで)を待っていたような次第。どうぞや、俺の心底を憐れと察して、一肩抜いでくれまいか?
 それにつけて、なお、いろいろと相談したいこともあり、かつ四ヶ月ぶりの会見である。こんな道ばたでは話も何もできぬから、向こうに見える二階家まで来てくれ」

 と指を差す。
 和平次は何気なく要助の指さす方を見やれば、今その前を通ってきたばかりの料理屋である。
 和平次は生まれついての正直者である。邪気も悪念もない好人物であるが、酒はまた生まれついての好物である。一合飲んでの鼻歌は、二合飲んでの手踊りとなり、三合飲んで前後を忘れ、四合飲んで眠り込んでしまうという厄介者である。
 されば今度の旅の伴をするについては、役目を了(おわ)るまで一滴も口にしませぬという誓いを阿津満母娘に立てている。それで今、要助から料理屋行きを勧められても、たいていは断ってみたが、要助はなかなか諾(き)き入れぬ。

 「そういうなら飲まんでもよいから、一緒に行くだけでも行って、俺の志だけでも享(う)けてくれ」

 と云うので、和平次も今は断る口実もなくなった。ことに根が好きの事ではあり、それではちょっとの間行こうということになって、要助と二人はその料理屋の客となった。
 お人好しの和平次は、酒好きの和平次である。一応断ってみた杯も、要助から押して勧めらるるとなれば、辞(いな)みも得ぬ。一杯が二杯となり、三杯は四杯と重ねて、気も浮いてくる。

 「うん、よし! お前がそういう感心な心なら、俺が請合って奥方様にお詫びを入れ、望みどおりの帰参を叶(かな)わしてやるから安心しろ!」

 と和平次が調子づいてくると、要助は、

 「うまい! しめた!」

 と喜び、なおその上に酒や肴(さかな)を運んで、いやというほど待遇(もてな)したから、和平次は鼻唄地唄の大酩酊である。
 要助は、ここだと思ったから、そろそろ切り出した。

 「今度は九州までのお旅とのことだが、三人の道中では、尠(すく)なからず金要(ものいり)であろう。その上、俺の詫びが叶ってお供を許されるとなると、三人が四人となって、ますます入費が嵩(かさ)むわけ、旅用の金は充分にお持ちか?」

 と尋ぬるを、和平次は皆まで聞かず、危なげな手を頻(しき)りに振って、

 「お前、何を云う! 金のことなら、五人が十人でも、一年が二年でも心配無用じゃ!」

 と、どこまでも上機嫌である。





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