富田一彦『キミは何のために勉強するのか - 試験勉強という名の知的冒険 2』

 本稿は、ジェイラボ基礎教養部の活動の一環であると同時に、これまで四半世紀もの間フラフラと生きてきた私自身の今後を考えるきっかけとするためのものである。基礎教養部の公式サイトのリンクを貼っておく。

https://www.j-lectures.org/entrance-exam/nannotameni_benkyo/

表題の書は 2 冊ある『試験勉強という名の知的冒険』シリーズの後編であるが、前編を読まずとも趣旨は理解できるように書かれている。勉強を教えることに少しでも関心がある方にはぜひとも読んでもらいたいので、2 冊合わせて Amazon のリンクを貼っておく。ただし、1 冊目は大学入試基本程度の英語の知識がない場合には難しく感じるかもしれない。

試験勉強という名の知的冒険 | 富田 一彦 |本 | 通販 | Amazon

キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~ | 富田 一彦 |本 | 通販 | Amazon

なお、前編である『試験勉強という名の知的冒険』(赤いほう) については、同じジェイラボメンバーによる書評も公開されているので、そちらもぜひ参考にしていただきたい。彼がこの本を手に取ったのは僕の紹介がきっかけだそうで、個人的に嬉しいかぎりである。

私が本書を初めて手に取ったのは中学 3 年生の夏休みで、ちょうど出版されて間もないころだった。ちょうど部活を引退して、受験勉強でも始めるかと思って書店に立ち寄り、飛び込んでくるかのように目についたのがこの 2 冊であった。高校受験のころだけではなく、今までの人生で何回読み直したかわからない。塾や予備校に通い詰めたことのない私にとって、この本は勉強のやり方を教えてくれるバイブルであった。むしろ、この本があったからこそ塾や予備校を必要としなかったとさえ言えるくらいであり、私の勉強観や教育観はこの本の影響を色濃く受けている。

1 富田氏の思想 (≒ 僕の思想) について

 著者である富田一彦氏は、30年以上の長きにわたって代々木ゼミナールで英語を担当してきた予備校講師である。東大の文学部を卒業して数年高校教師となり、その後予備校で働くことになったそうだ。とても有名な先生だから、ネットを探せば (その大半が違法アップロードだが) 授業の様子を撮影した動画がたくさん転がっているし、英語の参考書を中心とした著作も数多いので、気が向いた方はぜひともそれらに触れてみていただきたく思う。その一部に触れた一人として、その資格や英語の実力が僕にはないことを承知の上で僭越ながら評価させてもらうと、彼の教え方はかなり独特で、今まで受けた英語教育とは全然違うという感想を多くの方が持つと思う。しかしそれは奇を衒ったりでたらめを吹聴しているという意味ではない。僕なりの言葉を使うと「モノを考えるうえでの基本を英語を使って教えている」というのがよいだろうか。その根幹をなす 3 点について紹介してみたい。なおそのほとんどは表題の第 2 作ではなく第 1 作の『試験勉強という名の知的冒険』に詳しく書かれているので、そこからもたびたび引用することをお許しいただきたい。

1.1 「コンパクトで統一されている」「例外が少なく、あっても対処しやすい」「融通が利く」

 富田氏は、受験勉強を次の時系列に分けることができるという :

  1. 必要十分な知識を過不足なく手に入れる

  2. その知識を活用して目の前の現象を正しく見る観察力を養う

  3. 答えるべき問題を巧みに選択する判断力を養う

このうち 2, 3 は実際の試験で問題を解くという状況における極めて実践的な力に関わるものであり、もちろんそれも重要であるが、本稿で主眼を置きたいのはより広く "勉強" に関する 1 についてである。著者本人の言葉が最も正確かと思うのでそこから引用してみたい。

 実はここで大切なのは「必要十分」と「過不足なく」である。これはある意味これまで多くの「勉強法」にあった二つの誤った方向に対するアンチテーゼである。その誤った方向とは、知識の必要性を「過大」に重視する、ないしは「過少」に軽視する、という態度のことだ。
 内容は何であれ、これまで勉強について言われてきた「神話」はこの二つのどちらかの色を帯びている。またまた私の専門分野である英語を例にとると、「過大」神話の最たるものは古典的な「辞書を食べる」系の話である。「辞書を食べる」というのは、忘れたら二度と思い出せないように、言わば退路を断つために、覚えたページから辞書を食べてしまい、二度と見られないようにする、しかも最後は辞書を丸ごと食べて、すなわち覚えきる、という話である。ここには、差別的エリート主義が我が物顔で跳梁跋扈していた戦前のカビ臭いにおいが付きまとうが、どう考えても不可能と思われるこのような話の背後には、「問題解決には無限の知識が必要だ」「成功するには覚えるしかない」という愚かな信念が息づいている。「愚かな」といったのは、これは人間の現実を無視した考え方だからだ。その現実とは「人間は一定以上の量の知識を覚えられない」ことである。(中略) そういう当たり前の現実を知ってか知らずか、「本気を出せば覚えられるはずだ」などというおよそ不合理で非科学的な考え方が相変わらずまかり通っているのが、我々の住む教育の世界なのだ。
 (中略) もう一つ、知識を「過少」に評価するアプローチは、この前近代的なやり方に対する反発を原動力としているが、無意識な根っこのところでは前者と同じ考え方に立脚したものである。そのやり方とはもちろん、「何も知らなくてもできる」「勉強などしなくてもできる」というものだ。無理矢理大量の情報を覚えこまされる勉強に辟易している人々にとって、このような言葉は神の福音に聞こえるのは想像に難くない。実際には福音どころか悪魔のささやきなのであるが。英語の世界でも、やれ「二つだけ知っていればいい」だの、「聞き流すだけでできる」といった、「何も知らなくてもできる」系の話はよく本のタイトルなどで見かける。(中略) 「苦労しないでできるようになる」という発想の根っこには、実は「なんでも覚えきるのが正しい」というのと同じくらいの選民思想が働いている。そういう思想の背後には「苦労して何かをするのは馬鹿である」「ものにはうまいやり方がある」という思いあがった態度が仄見える。確かに私も「無意味な苦労」をするのはおろかであると思うし、ものには「正しい」やり方があることにも同意する。だが、それはすでに語ったように、正しい方向を向いて必要な力を尽くした上のことであって、「何も知らず」「何もしない」でできるようになることはありえない。
富田一彦 著『試験勉強という名の知的冒険』P.133-140 (太字は蜆による)

さらに続く。以下の引用では断りなく省略するが、原著には富田氏の専門である英語に関する様々な具体例が挙げられているので、気になる方はそちらも参照していただきたい :

 では私が言う「必要十分」で「過不足ない」知識とはどのようなものか。それは一言でいうと「知恵」の種になる知識である。知識と知恵、この両者の関係は第二部の中心的内容であるから、それを一言で語るのは難しい。ここではそういう「知恵」の種になる知識の持っている三つの要素を整理しておこう。

① コンパクトで統一されている
 まず「コンパクトで統一されていること」であるが、この前提となるのは先ほど触れた「人間は無限に多くのことを覚えることはできない」という現実である。だから、人間は出会ったことを片っ端から無秩序に覚えていくことはできない。そんなことをしたら、あっという間に記憶容量をオーバーフローしてしまう。たから、我々は本能的に (このことも先に指摘した) 複数のものの間にある共通点を見出して類似のものをまとめていく能力が備わっている。私の言う「コンパクトで統一された知識」とは、そういうわれわれの本能をより意識的に使い、データ容量を圧縮することで記憶できる量にまとめた知識、という意味である。

② 例外が少なく、あっても対処しやすい
 ② の「例外が少なく、あっても対処しやすいこと」は、その知識が全体の中のどれだけ広い範囲をカバーしうるかが重要だということである。どんなルールにも例外はある。例外をまったくもたないようにルールを作ることはこの現実世界ではおよそ不可能だろう。少なくとも私の専門分野の語学ではこれは不可能である。(中略) ここで一つ必要なのは、なるべく多くのものを同じルールで説明できるようにするためには、ルールは「ゆるく」なくてはならない、ということである。「ゆるく」することで例外は減り、しかもいろいろな場面で使いやすくなる。だが一方で、ゆるくなりすぎれば、今度は何でもありになってしまい、ルールとして成立しなくなる。ここをどうバランスしてルールを手に入れていくかが肝心なのである。これを端的に表した言葉が「天網恢恢疎にして漏らさず」である、これはもともと「天界のルールはとてもよくできていて、一見ひどくゆるく見え、いくらでも抜け道が見つかるように見えても、その実なんでもからめ捕れるように作られており、出し抜いたつもりでも結局は捕縛される」という意味なのだが、その意味するところは今私が言わんとしている「知識」の姿にきわめて近い性質を持っている。

③ 融通が利く
 第三の「融通が利く」であるが、これは「例外が少なく、あっても対処しやすいこと」の延長戦上にあって、しかも「コンパクトで統一されている」こととコインの裏表のような関係にある。押しなべてこの世に存在するあらゆる生物は、自分が将来経験することをすべて事前に知っておくことなどできない。ネコであれ人間であれ、生きていれば必ず「未知のもの」と出会う。ではネコと人間の最大の違いは何か。ネコは未知なる状況に対処することはできないが、人間は過去の経験を利用して未知なる状況に適切な対処を思いつくことができる、これこそが最大の違いである。この能力を「応用力」という。「応用力」とは「過去の経験を未知の状況に生かす」ことである。間違えてはいけない。過去の経験をそのまま当てはめることはできない。何しろ「未知」、すなわち未経験の状況なのだ。過去にやったことをそのまま当てはめてもうまくいくはずがない。だが、過去の経験をうまく「応用」すれば、今の状況に対応することは可能である場合が多い。それを可能にしているのが、持っている知識が「コンパクトで統一されている」「例外が少なく、あっても対処しやすい」に加えて、「融通が利く」という状態なのだ。
逆の言い方をすれば、「融通が利く」からこそ、知識は「コンパクト」でよく、かつ「例外が少ない」になる道理である。そしてこういう発想で勉強することによって身につくものこそが「知恵」の正体である。

この、コンパクトな知識を融通を利かせて応用する、という考え方の背後にあるのが、人間の持つ最も大切な、最も引き出すべき能力である「抽象化」能力の養成と活用である。この能力があったからこそ、サルはヒトに進化したと言っても過言ではない。今私が説明しているすべてのことは、結局「抽象化」能力を養うことと不可分であり、それが達成できることと同時に実現できるものであるし、教育の成功のカギは、どれだけ学習者の抽象化能力を高められるか、あるいはそれが一定以上高い人間を選抜してさらに高める教育を施すかにかかっていると言ってもいい。抽象化とは「表面が違って見えるものの、中身の共通性を見出す」ことだ。
富田一彦 著『試験勉強という名の知的冒険』P.140-145 (太字は蜆による)

ここに挙げられたことを指導で実践するのは、想像以上にとても難しい。何が「必要十分」になるのかは「何を目標とするか」によっても大きく左右されるからである。予備校講師の場合は当然 "受験の成功" でいいのだが、学校教育では様々な生徒がおり、一概に目標を定めることができないという事情がある。無難にするにも現実的にも、最低限のレベルを保障することで手一杯になってしまっても仕方がないと思う。

1.2 体系的な視点を持たない「先生」にあたる不幸

 当時の指導教官には申し訳ないが、前節に挙げた性質を帯びていない指導の一例として、僕が教育実習に行ったときの話をしたい。もう 3 年前でまだコロナウイルスも蔓延していなかったころであり、中学 1 年生を担当して文字式を教えることになった。指導教官は学年主任の先生で、なんと僕と同じ京大の総人出身で理論物理を専攻されていたそうである。その経歴を疑うくらいに、彼の授業はお世辞にも褒められたものではなかった。

 まず最初の 15 分は、「50 分も集中できるわけがない」という理由で雑談に費やされる。もちろん授業とは何の関係もない。トトロのネコバスにまつわる都市伝説とか奥さんがベッドから落ちて腰を壊したとかそんな話である。僕も同じ授業構成を求められ、「朝の通勤電車で次の駅で降りそうな人を探すコツ」という、徒歩か自転車でしか通学していない中学生には極めてどうでもいい話を絞り出したのを覚えている。残りの 35 分は仕方がなく数学をするわけだが、基本的に教科書もノートも使わない。問題だけが載ったプリントを手渡して問題を解かせる。それも絵にかいたようなパターンマッチングで、なぜ同類項以外をまとめてはいけないのか、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるのか、といったことを考える時間は作らない。僕はそれが我慢ならず、「文字を導入するのは "村人 A" のようにとりあえず名前を付けるためだ」とか「累乗を訓読みすると "かさねてじょうずる" だ」とか、無機質な暗記にならないよういろんな工夫をしてみたところ、"プリントに載せないことは話さないほうがいい" とか "数学の授業で数学以外の話をしないほうがいい" という指導をいただいた。腰を壊した奥さんには同情するしかない。

 一体彼の授業の何がよくないかと言えば、もちろん言うまでもなく、とりあえず問題を解決する手段を仕込むだけで、その実は何も理解させず、知的能力を向上させる気がさらさらないという点である。ただ、彼の名誉のためにも、担当した学年は非常に私語が目立ち、教員の話を集中して聴ける状態を作ることはおろか、授業をまともに成立させることすら困難な状況だったことを補足しておく。「躾」がなっていないために勉強どころではない子が多いことも教育の難しさである。また、私語のない別の学年の授業を覗いたときには、連立方程式で加減法が意味することをリンゴとカキを買うという状況に照らして気づかせる講義を行う先生もいたことも補足しておく。

 授業がひどければ別の先生にあたったり自分で勉強したりすればいいではないか、というのも一理あるが、それでうまく方針を見定めて成果を出すのは学習者にとって極めて難しい。おそらく次のような学習者はかなり多いものと想像する。これを見て驚愕する向きもあろうが、それほどまでに世の中一般には勉強の内容が正しく理解されておらず、いかに問題を解く技術だけを仕込まれているかがわかると思う。

  • 「円周率とは何か?」と聞かれたときに 3.14…と答えてしまう。正しくは "直径に対する円周の比" である。「円周 = 直径 × 円周率」を知っているのにこの答えにピンとこないのは割合がわかっていないということである。

  • 「三角形の合同条件」は正確に 3 つ答えられるのに、「合同って何?」と聞かれたら答えられない。何かわからないものになるための条件は言えるというのは不自然極まりない。

  • 普段そんな日本語を使わないのに "often" を見たら反射的に "しばしば" と訳す。間違っているわけではなく、単に出来合いの表現に置き換えればよいのだと考えてしまっている可能性がこの行為から読み取れる。案の定 "しばしばってどういう意味?" に答えられない子も少なくない。

一方でこれらの事例は、ひたすら問題にあたり、頭で理解するよりも体で覚えてしまおうという「慣れ」の方法がそれなりの学習効果を持つことも示している。先ほど例示した授業さえまともに成立しないような環境においては、理解させられるくらいに集中して授業を聞かせることは難しいので、とりあえず問題を解くための方法を仕込むことで手一杯になるのもやむを得ないと思う。ただ、そういう学習法が効果を発揮するのも意味を成すのも「目の前の定期試験を突破する」一面においてだけだ。いや、実際には意味すらなしていない。それは定期テストを作成する人物と授業をする人物が一致しているからこそ可能な芸当であり、授業で仕込んだようにテストを作れば成果をある程度は "捏造" できてしまう。やるべき作業を「コンパクト」にしたように見えても、実のところは例外が多く融通も聞かない穴だらけの方法である。"定期テストでは点数が取れても実力テストや模試では点数が取れない" という状態が生まれてしまうのも、こういうところに原因がある。

 そもそも、我々が中高生に数学を勉強させる最大の理由は、数学の知識や技術を身につけさせることではない。それも無意味ではないが、あくまでも "抽象思考に慣れ論理的に理詰めで考える力を養う" という本来の目的を追った結果としての産物であるべきだ。かなり長いが、表題の書から引用してみよう :

 指導者が必ず持つべき資質がある。それは、常に学習者の抽象化能力を高めようという意識を持つことである。抽象化とは「表面が違ってみえるものの中身の共通性に気付く」ことである。この具体的内容と意義については前作に詳しいが、この能力を高めておくことが、「観察力」を高めるという仮定を通じて学習者の知的レベル向上に最も寄与するのだ。
 いわゆる普通教育では、小学校から高校、果ては大学に至るまで、学習者はこの能力の向上を図り続けているだけだ、といっても過言ではない。個々の科目はそれを多角的に引き出し向上させるための材料にすぎないといってもそれほど大きく事実とは食い違わないはずだ。だが、指導者といえど、正しい認識を持っていないと、単に目の前の知識を与えるだけで、学習を通じて抽象化能力を高める、という全教科に共通の第一の目的を見失ってしまうことがある。
 では、どうやって「抽象化能力を高める」ことを実現するか。そのためには抽象化のヒントを豊富に含んだ多様な実例を与えていき、その中にある「必然性」と「再現性」を学生に意識させ続けることである。そのためには、前作第一部に示したような問いの持つ性質、臨機応変にその場面に応じた例などを学習者に示していくことが重要だ。その意味において、指導者は教科の指導者であると同時に抽象化のよりよき実践を通じてそれを学習者に指導することが必要である。

 考えてみれば、単に「観察力」を生徒に教えることはできない。何に気付き、それにどう対処するかは事前に決まっているわけではないからだ。もちろん頻度の高い観察のポイントを教えて、それに対する警戒心を向上させるという「堅実な」方法もあるが、でもこれは勉強を再び慣れと惰性の世界へ導きかねない危険性を持つ諸刃の剣である。目標とする達成度がそれほど高くないならば、それを徹底するだけで成果は上がるが、本当に高いレベルでの成功とは時に相容れない。何の前提もなく、ただ目の前の現実だけを見て、誰からもヒントを与えられずに、これまでに知っていることとの共有点を見出し、そこを突破口にして、表に見えていない事柄の本質を見出すためには、むしろ「慣れ」は邪魔でしかない。
 実際、出題された問題を見ていると、「慣れ」と「発見」をどのようにさじ加減するかで、難易度が変わってくる。大雑把にレベル分けをすると「慣れ」だけで解くものが「低」レベル、「慣れ」でも「発見」でも解けるものが「中」レベル、「発見」で解くのが「高」レベルである。このことは大学受験の場における一見おかしな現実と見事に符合する。東大に合格する学生は早稲田・慶応の入試を、特に準備なしで受けてもほとんど合格する。反対は (科目数の問題を別にしても) ほとんどない。早稲田・慶応では高得点を取る学生でも、同じ科目の東大の入学試験問題の得点は高くないことが多い。
 一方。東大に合格する学生に、レベルのかなり低い大学の問題を解かせると、妙に点数が低いことがある。実際に受験したらおそらく不合格だ。こういうねじれが起きるのは大学のレベルとそれに応じて問う問題の種類が「慣れ」か「発見」かがはっきり分かれている証拠である。

 世に言う「できる」学生は実は単に「慣れ」によって見かけの能力が高まっているように見えるだけの場合がかなり多い。そして「慣れ」を高める方向でしか指導をしていない教育機関もかなりある。
 前にも書いたが、「慣れ」を教えているだけでも一部に「発見」という新たな方向を自ら見出して成功を収める学習者も出るし、たとえば大学などの全体としては門戸の広い私見 (最近ではいわゆる「全入」だ) では、「慣れ」だけで成功する学校もかなりあるので、単に「結果を出す」だけなら「慣れ」しか教えない教育機関にも一定の存在価値がある。だが、中学高校大学受験でも本当に高いレベルの成功を目指したり、司法試験・会計士試験など合格率の低い試験を目指している場合、「慣れ」だけで対処する教育機関では成功率は決して高くならない。
いや問題は単に試験の成功率だけではない。本来的な意味でそのかけた労力にふさわしい成功は、試験の成功云々ではなく、物事を冷静に見て何かを発見しうる能力を身につけることそれ自体なのだ。だから、単なる「慣れ」を乗り越えて、目の前の出来事を抽象化し、そこから正しい観察と発見を得るだけの能力を与えようとすることが、指導者の持つべき良心である。

目の前の試験を突破するのはとても難しいし、そのことにも十分な価値があることを否定はしないが、本来それが目的であってはならないということもまた忘れてはいけない。第 2 章で語るように、試験を突破するという現実を無視することなく、このような性質を帯びた指導をしていくことが、当面の僕の目標である。

1.3 数学での実践例 ~倍数の判定法~

 ここでは僕が数学を教える一例として、新指導要領では数学 A の「数学と人間の生活」という単元で扱うことになっている "倍数の判定法" を扱ってみよう。数研出版の教科書『新編 数学 I』には次のようにまとめられている :

 2の倍数 … 一の位が 0, 2, 4, 6, 8 のいずれか
 3の倍数 … 各位の数の和が 3 の倍数
 4の倍数 … 下 2 桁が 4 の倍数
 5の倍数 … 一の位が 0 か 5
 8の倍数 … 下 3 桁が 8 の倍数
 9の倍数 … 各位の数の和が 9 の倍数
10の倍数 … 一の位が 0
数研出版 『新編 数学 I』 P.118 - 119

これらの判定法をまず事実として提示したうえで、この方法で判定できる理由を考えよう、という流れになっている。この時点では数学 B の数列で学ぶ一般の n 桁の数を表す術を持たないので、ここでは 4 桁の自然数の場合が扱われている。たとえば 3 の倍数の判定法については次のように導かれる :

 a を 1 以上 9 以下の整数、b, c, d を 0 以上 9 以下の整数とすると、4 桁の自然数 N は
  N = 1000a + 100b + 10c + d
   = 3(333a + 33b + 3c) + a + b + c + d
と表せる。a, b, c は整数ゆえ 3(333a + 33b + 3c) は 3 の倍数であるから、N が 3 の倍数となるのは a + b + c + d が 3 の倍数のときである。
上記と同じ教科書 P.118

ここでさらに 3(333a + 33b + 3c) をくくりなおして 9(111a + 11b + c) とすることにより、9 の倍数の判定法も同じように理解できる。しかし実は、この証明自体は中学 2 年相当の数学でもすでに扱っているので、この証明を理解し上記の判定法が正しいと納得することを目標にするならば、わざわざ高校数学で扱いなおす必要はない。高校レベルの抽象化能力を身につけるうえで肝要なことは、上の証明から次の 2 点を読み取ることにあると僕は思う :

  1. 自然数 N を "明らかに 3 で割り切れる部分" と "割り切れるかわからない部分" の 2 つにわけている

  2. "割り切れるかわからない部分" は元の数 N よりも相当小さくなっている

 まず、ある数が 3 で割り切れるかどうかを判定する最も確実な方法とは何だろうか。身も蓋もない答えになるが、それは誰がどう考えても

実際に 3 で割ってみる

ことである。これでいいのだから、中 2 になるのを待たなくても小学校 3 年生であれば十分に実践できるはずだ。それですべてが済むのだから、倍数の判定法なんてものを高校 1 年生になって新しくやり直さなければならない必然性はどこにもない。こういった素直で当たり前な事実を無視したまま、勉強する意味のまったくわからないものを押し付けようとすると、生徒は数学(勉強)を嫌いになりかねない。これは学習者に媚びているということではなく、ただ単に教科書に載っていることをそのまま教えればよいのだという指導者の怠慢を防ぐために必要な意識であると思う。さて、我々が倍数の判定法を欲する "理由" もまた素直かつ単純で身も蓋もない。それはもちろん

割ってみるなんてめんどくさい

からだ。443 を 3 で割るくらいならまだ許せるかもしれないが、もっと桁数の多い 42805739 を 3 で割るのは確かに面倒だ。人間とはできるだけ楽をしたい生き物であり、せっかく「数学と人間の活動」なんて単元を新しく作ったのであれば、どうせなら人間のこうした欲求を満たすために倍数の判定法は存在する、と素直に書いてしまえばいいと思うのは僕だけだろうか。冗談(本音)はさておき、ここまでの話をまとめると、"実際に割れば済むにもかかわらず、それでも倍数の判定法なんてものをわざわざ考えるのであれば、実際に割ってみる以上にラクな方法でなければ意味がない" ということになる。実際、たとえば 4 の倍数の判定法を見てみればわかるように、もとの数 N に比べて「下 2 桁」はかなり小さい数である。ここで重要なのは "下 2 桁" の前に "N が何桁の数であろうと関係なく" が付くことである。たとえば 4 桁の整数であれば N は小さくとも 1000 であるが、下 2 桁は大きくとも 99 である。これくらい小さくなれば 4 で割ることも容易いし、何なら「割る」ことさえしなくても目で見ただけで判定が可能である。当たり前かもしれないが、"ものすごく小さい一部だけを見て、場合によっては割ることさえせずとも楽に判定できる" ことが倍数の判定法の本質的な "うまみ" である。

 さて、3 の倍数の判定法の証明でも見たように、もとの自然数 N が割り切れるかどうかを本質的に左右するのはこの "割り切れるかわからない部分" であり、先ほど紹介した様々な判定法は、それぞれのケースにおける "割り切れるかわからない部分" を詳述したものに過ぎない。残りのケースもまとめて解説しよう :

 2, 5, 10 の倍数の判定法が「一の位が…」となっているのは、十の位までを表す1000a + 100b + 10c が "明らかに 2, 5, 10 で割り切れる部分" となることから来ている。"割り切れるかわからない部分" に目を向けると、
  2 で割り切れる一の位は 0, 2, 4, 6, 8、
  5 で割り切れる一の位は 0, 5、
  10 で割り切れる一の位は 0、
ということで上記の判定法が得られる。「一の位」くらいまで小さい数になれば、ここまで具体的なことが言えるのだ。
 同様に、1000a + 100b は "明らかに 4 で割り切れる部分" であり、1000a は "明らかに 8 で割り切れる部分" であるから、これらに応じた "割り切れるかわからない部分" は
  4 で割るときには下 2 桁の "10c + d"、
  8 で割る場合には下 3 桁の "100b + 10c + d"
 となる。

いかがだろうか。3 の倍数の判定法は 3 の倍数であることの判定にしか適用できないが、「"明らかに割り切れる部分" と "割り切れるかわからない部分" に分ける」という考え方はすべての倍数の判定法に適用可能である。そればかりか、この考え方を各々の場合に適用することで判定法を自分で導き出すことができるため、頭に入れる知識の量をかなり "圧縮" できる。考え方 1 つだけで上の 7 つの判定法を 1 つの体系立った塊として捉えることができるのだ。まさに「コンパクトで統一されており」、「例外がなく」、「融通が利く」考え方である。

 また、このような理解をしていると、上の判定法を適用するよりもずっと簡単な方法があることに気が付く。たとえば 42805739 が 3 で割り切れるか考える場合、

 42805739 → 805739 → 205739 → 25739 → 1739 → 239

ゆえ割り切れない、とすればいいのである。要は "明らかに 3 で割り切れる" ことがわかる部分をどんどん引いていって数を小さくしていくのであり、記号 → はその操作を行ったことを表している。具体的には左から順番に 42000000、600000、180000、24000、1500 を引いていったのだ。ここでさらに 239 が 3 で割り切れるかパッとわからなかったとしても、さらに 210 を引いてみれば 29 とより「小さく」なってわかりやすくなる。これがインチキに見えるという方は、ここで引いていった 6 個の数と余りの 29 に現れた 0 でない数字をすべて足してみるとよい。それはまさに「各位の数の和」に他ならず、教科書通りの模範的な解法であることまでわかる。他にも先に 5739 を除く方法も考えられる。ちなみに、高校数学において整数論を勉強するときに重要な「ユークリッドの互除法」や「合同式」もまた、まさにこの "元の大きい数を (重要かつ本質的な情報を備えた) 小さい数に書き換えて考えやすくする" ことを本質的な動機としている。そこさえ外さないようにしていれば、整数の勉強で路頭に迷う可能性はかなり軽減できるものと思う。


 もちろん、本来つながりのないものを無理矢理一本の筋にまとめようとして嘘を入り混ぜるのは本末転倒である。自分の説明に独自性をつけるために数学を不当に傷つけるようなことがあってはならない。数学教員にはそれ相応の数学への造詣と敬意が求められる。

 また、いつもこれでいいのかと悩むのは、こういったまとめ方は自分で気づいたほうが絶対にいいということである。人に教えられたことはすぐ忘れる一方で、自分で捻り出したものは大事にするし簡単には忘れられない。考えるきっかけを与えたつもりでも噛み砕かずに知識として丸ごと暗記される恐れもあるので、変な受け取られ方をされるくらいなら触れないでおく、というのが安全でもある。頭でっかちになる恐ろしさはかねてより「習うより慣れよ」という諺にも言われているし、寿司職人が寿司を握らせてもらえるようになるのに長い年月を要するのは、知識としてではなく師匠の様子から感覚として学びとるためにどうしても必要だからだと思う。富田先生のいう「観察力」を身につけるには多く経験を積むことが必要不可欠なのも事実だ。

 しかし、そもそも慣れたり観察力を身につけたりする以前に「習う」段階で挫折している学習者が大量にいる事実を無視してはいけない。学習者にも問題があるケースも多分にあろうが、指導者の力量不足に問題があるケースもまたそれに負けず劣らず多くあると思う。「青チャートを3周する」とか「ルートにある 4 冊とか 5 冊もの参考書を "完璧" にする」「徹底的に先取りをする 」「1 日 14 時間勉強を 1 年間続ける」とかいう、それこそ「辞書を食べる」を地で行くような方法論ばかりが先行してしまう現状に、指導者の見識のなさがありありと現れている。大人の力不足のためにこんな無駄な苦労を高校生に強いて体裁を整えるような業界であってはいけないと強く思う。先ほど富田先生の言葉を引いた際に "「慣れ」を教えているだけでも一部に「発見」という新たな方向を自ら見出して成功を収める学習者も出る" という部分を黒字で強調したが、華々しい結果を出しているように見える教育機関はたいていこのような学習者を多く抱えているだけなのである。ここの部分をはき違えて、学習者の不安につけこんで扇動したり考える力を奪ったり、大人たちの都合に巻き込んでいらぬ苦労を強いたりしてしまうと、「モノを教える」という仕事はいとも簡単に国益にかなう将来への投資から単なる暴力的な水商売へと急落してしまう。


2 理解させることをほぼ放棄している高校数学の現状

 富田先生の場合は英語だったが、ここでは僕が専門とする数学について、その検定教科書を踏まえて 2 つ疑問に思うことを書いてみたいと思う。僕は今、所属するジェイラボ未来部において、シン・コアレクチャー作成プロジェクトの一環で検定教科書を精読している。ちょうど新指導要領へ移る途中にあるという都合で、まだ数学 I, A, II の 3 冊しか世には出回っていないため、まずこれらを順に読んでいっている。だが、数学 I の 1 冊さえも読み終わらない現段階でもうすでに、かなり闇の深い状況に頭を悩ませている。

2.1 「解法暗記」を助長する検定教科書の構成

 そのことを示す具体例の一つとして、数学 I の 2 次不等式の分野を挙げよう。精読会で使っている教科書には、次のような表が大きく掲載されている :

数研出版 『新編 数学 I』  P.124 より

それなりに数学ができる方であれば誰でもわかることなのだが、「判別式の値の正負でなぜグラフと x 軸の位置関係がわかるのか」を理解し、「グラフを描いて y 座標を見る」というまとめ方さえすれば、この表に書かれてあることは暗記するに足らないのだ。「コンパクト」で「例外が少なく」「融通が利く」形にするためには、表として具体化するのではなく、"考え方だけ示してあとは個々の場合に適用する" という方法をとるべきなのだ。もちろん、テキストとして結論を書かないわけにはいかないという事情はあると思うのだが、あたかも重要な公式であるかのようにでかでかと載っているこの表を「暗記しないで考えろ」と言われて、教わる生徒が支離滅裂だと感じてしまうのもやむを得ない。それならわざわざ大事そうに書くなという話である。だから僕には、この表を覚えないといけないのかと考える生徒がいたとして、彼らを責める気にはとてもなれない。

 また、載っている問題も十分に練られたものとは言えない。具体的には、練習例題の数値を変えただけの問題を置くことで、同じ作業をするだけで答えにたどりつけるようにするのだ。この構成が原因で、あたかも公式や道具の "当てはめ方" を学べばいいかのように錯覚してしまうのだと思う。数学はただでさえ苦手意識や嫌悪感を持つ学習者が多い科目であり、そこに難しい内容を叩きつけて余計に数学離れを加速させるわけにはいかないので、誰にでも答えが出せるような "接待" が行われている。ゴルフをやって上司の機嫌を取るだけならそれでいいが、学習者をいい気分にしたところで、その後少しひねられた問題にあたったときには化けの皮が剥がれてしまう。"定期テストでは点が取れるが実力テストや模試では点が取れない" という病状はここにも原因がある。

2.2 数学を 6 つに分断する愚策

 2022 年度からの新学習指導要領のもとでは、たとえば理系学部に進学する生徒の場合は最大で "数学 I"・"数学 A"・"数学 II"・"数学 B"・"数学 III"・"数学 C" の 6 科目を大学入試で使うことになる。これを言い出したら終わりなのかもしれないが、高校数学を 6 冊にも分けて学ばせるカリキュラム構成自体が決定的によくないとどうしても思ってしまうのだ。たとえば、

  1.  数学 I の「数と式」 と 数学 II の「式と証明」

  2.  数学 I の「三角比」 と 数学 II の「三角関数」

  3.  数学 I の「データと分析」 と 数学 II の「統計的な分布と推測」

  4.  数学 II の「複素数と方程式」 と 数学 C の「複素数平面」

  5.  数学 II の「微分法」 と 数学 III の「微分法」

  6.  数学 II の「積分法」 と 数学 III の「積分法」

  7.  数学 B の「平面ベクトル」 と 数学 B の「空間ベクトル」

などは同時に学んだほうが明らかに効率的だと思う。それが様々な事情により細かく分断されて教えられている。こんなにも分断されて教えられている科目は数学しかない。新課程では歴史総合なる科目が導入されることになったらしいが) 僕が高校生のころには "世界史 A" と "世界史 B" の 2 種類があったり、理科は "化学基礎" と "化学" のように 2 段階に分かれていることもあるが、数学のように 6 つにも分断されることはない。先ほど述べたように見かけの負担や難しさを軽減するという理由もあってのことか、数学の教科書というのは他の科目に比べてかなり薄く作られている。実際、精読会で使っている数学の教科書は 160 ~ 250 ページほどなのに対し、たとえば山川の詳説世界史は 450 ページもある。そういう見かけだけの取っつきやすさではなく、富田先生が掲げるような本当の意味での学びやすさを備えた教材作成や指導にあたっていきたいと考えている。教科書の分断が、体系化の権化ともいえる数学という科目を不必要にややこしく、そして「コンパクトで統一され」ていて「例外が少なく」「融通が利く」ような指導を難しくしてしまっているように思えてならない。

3 終わりに

 以上 15000 字にもわたって長々と書いてきたが、要は僕が数学および勉強の教えられ方に多くの問題点を感じているということである。それを正していくなどという思いあがった考えは持っていないが、せめて自分のできることをなるべく誠実にやっていければいいと思うし、この記事を推敲していく過程で当面の自分のやりたいことの方向性が定まってきたように感じる。いや、10 年ほどから表題の書を繰り返して読んできたことからすれば、それほど考えは変わっておらずやっと形にする覚悟が決まってきたと言ったほうが正確なのかもしれない。もうすぐ 25 にもなろうとしている身で情けないが、人生はまだ長い。自分のペースで頑張っていきたいと思う。

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