富田一彦『キミは何のために勉強するのか - 試験勉強という名の知的冒険 2』
本稿は、ジェイラボ基礎教養部の活動の一環であると同時に、これまで四半世紀もの間フラフラと生きてきた私自身の今後を考えるきっかけとするためのものである。基礎教養部の公式サイトのリンクを貼っておく。
https://www.j-lectures.org/entrance-exam/nannotameni_benkyo/
表題の書は 2 冊ある『試験勉強という名の知的冒険』シリーズの後編であるが、前編を読まずとも趣旨は理解できるように書かれている。勉強を教えることに少しでも関心がある方にはぜひとも読んでもらいたいので、2 冊合わせて Amazon のリンクを貼っておく。ただし、1 冊目は大学入試基本程度の英語の知識がない場合には難しく感じるかもしれない。
試験勉強という名の知的冒険 | 富田 一彦 |本 | 通販 | Amazon
キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~ | 富田 一彦 |本 | 通販 | Amazon
なお、前編である『試験勉強という名の知的冒険』(赤いほう) については、同じジェイラボメンバーによる書評も公開されているので、そちらもぜひ参考にしていただきたい。彼がこの本を手に取ったのは僕の紹介がきっかけだそうで、個人的に嬉しいかぎりである。
私が本書を初めて手に取ったのは中学 3 年生の夏休みで、ちょうど出版されて間もないころだった。ちょうど部活を引退して、受験勉強でも始めるかと思って書店に立ち寄り、飛び込んでくるかのように目についたのがこの 2 冊であった。高校受験のころだけではなく、今までの人生で何回読み直したかわからない。塾や予備校に通い詰めたことのない私にとって、この本は勉強のやり方を教えてくれるバイブルであった。むしろ、この本があったからこそ塾や予備校を必要としなかったとさえ言えるくらいであり、私の勉強観や教育観はこの本の影響を色濃く受けている。
1 富田氏の思想 (≒ 僕の思想) について
著者である富田一彦氏は、30年以上の長きにわたって代々木ゼミナールで英語を担当してきた予備校講師である。東大の文学部を卒業して数年高校教師となり、その後予備校で働くことになったそうだ。とても有名な先生だから、ネットを探せば (その大半が違法アップロードだが) 授業の様子を撮影した動画がたくさん転がっているし、英語の参考書を中心とした著作も数多いので、気が向いた方はぜひともそれらに触れてみていただきたく思う。その一部に触れた一人として、その資格や英語の実力が僕にはないことを承知の上で僭越ながら評価させてもらうと、彼の教え方はかなり独特で、今まで受けた英語教育とは全然違うという感想を多くの方が持つと思う。しかしそれは奇を衒ったりでたらめを吹聴しているという意味ではない。僕なりの言葉を使うと「モノを考えるうえでの基本を英語を使って教えている」というのがよいだろうか。その根幹をなす 3 点について紹介してみたい。なおそのほとんどは表題の第 2 作ではなく第 1 作の『試験勉強という名の知的冒険』に詳しく書かれているので、そこからもたびたび引用することをお許しいただきたい。
1.1 「コンパクトで統一されている」「例外が少なく、あっても対処しやすい」「融通が利く」
富田氏は、受験勉強を次の時系列に分けることができるという :
必要十分な知識を過不足なく手に入れる
その知識を活用して目の前の現象を正しく見る観察力を養う
答えるべき問題を巧みに選択する判断力を養う
このうち 2, 3 は実際の試験で問題を解くという状況における極めて実践的な力に関わるものであり、もちろんそれも重要であるが、本稿で主眼を置きたいのはより広く "勉強" に関する 1 についてである。著者本人の言葉が最も正確かと思うのでそこから引用してみたい。
さらに続く。以下の引用では断りなく省略するが、原著には富田氏の専門である英語に関する様々な具体例が挙げられているので、気になる方はそちらも参照していただきたい :
ここに挙げられたことを指導で実践するのは、想像以上にとても難しい。何が「必要十分」になるのかは「何を目標とするか」によっても大きく左右されるからである。予備校講師の場合は当然 "受験の成功" でいいのだが、学校教育では様々な生徒がおり、一概に目標を定めることができないという事情がある。無難にするにも現実的にも、最低限のレベルを保障することで手一杯になってしまっても仕方がないと思う。
1.2 体系的な視点を持たない「先生」にあたる不幸
当時の指導教官には申し訳ないが、前節に挙げた性質を帯びていない指導の一例として、僕が教育実習に行ったときの話をしたい。もう 3 年前でまだコロナウイルスも蔓延していなかったころであり、中学 1 年生を担当して文字式を教えることになった。指導教官は学年主任の先生で、なんと僕と同じ京大の総人出身で理論物理を専攻されていたそうである。その経歴を疑うくらいに、彼の授業はお世辞にも褒められたものではなかった。
まず最初の 15 分は、「50 分も集中できるわけがない」という理由で雑談に費やされる。もちろん授業とは何の関係もない。トトロのネコバスにまつわる都市伝説とか奥さんがベッドから落ちて腰を壊したとかそんな話である。僕も同じ授業構成を求められ、「朝の通勤電車で次の駅で降りそうな人を探すコツ」という、徒歩か自転車でしか通学していない中学生には極めてどうでもいい話を絞り出したのを覚えている。残りの 35 分は仕方がなく数学をするわけだが、基本的に教科書もノートも使わない。問題だけが載ったプリントを手渡して問題を解かせる。それも絵にかいたようなパターンマッチングで、なぜ同類項以外をまとめてはいけないのか、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるのか、といったことを考える時間は作らない。僕はそれが我慢ならず、「文字を導入するのは "村人 A" のようにとりあえず名前を付けるためだ」とか「累乗を訓読みすると "かさねてじょうずる" だ」とか、無機質な暗記にならないよういろんな工夫をしてみたところ、"プリントに載せないことは話さないほうがいい" とか "数学の授業で数学以外の話をしないほうがいい" という指導をいただいた。腰を壊した奥さんには同情するしかない。
一体彼の授業の何がよくないかと言えば、もちろん言うまでもなく、とりあえず問題を解決する手段を仕込むだけで、その実は何も理解させず、知的能力を向上させる気がさらさらないという点である。ただ、彼の名誉のためにも、担当した学年は非常に私語が目立ち、教員の話を集中して聴ける状態を作ることはおろか、授業をまともに成立させることすら困難な状況だったことを補足しておく。「躾」がなっていないために勉強どころではない子が多いことも教育の難しさである。また、私語のない別の学年の授業を覗いたときには、連立方程式で加減法が意味することをリンゴとカキを買うという状況に照らして気づかせる講義を行う先生もいたことも補足しておく。
授業がひどければ別の先生にあたったり自分で勉強したりすればいいではないか、というのも一理あるが、それでうまく方針を見定めて成果を出すのは学習者にとって極めて難しい。おそらく次のような学習者はかなり多いものと想像する。これを見て驚愕する向きもあろうが、それほどまでに世の中一般には勉強の内容が正しく理解されておらず、いかに問題を解く技術だけを仕込まれているかがわかると思う。
「円周率とは何か?」と聞かれたときに 3.14…と答えてしまう。正しくは "直径に対する円周の比" である。「円周 = 直径 × 円周率」を知っているのにこの答えにピンとこないのは割合がわかっていないということである。
「三角形の合同条件」は正確に 3 つ答えられるのに、「合同って何?」と聞かれたら答えられない。何かわからないものになるための条件は言えるというのは不自然極まりない。
普段そんな日本語を使わないのに "often" を見たら反射的に "しばしば" と訳す。間違っているわけではなく、単に出来合いの表現に置き換えればよいのだと考えてしまっている可能性がこの行為から読み取れる。案の定 "しばしばってどういう意味?" に答えられない子も少なくない。
一方でこれらの事例は、ひたすら問題にあたり、頭で理解するよりも体で覚えてしまおうという「慣れ」の方法がそれなりの学習効果を持つことも示している。先ほど例示した授業さえまともに成立しないような環境においては、理解させられるくらいに集中して授業を聞かせることは難しいので、とりあえず問題を解くための方法を仕込むことで手一杯になるのもやむを得ないと思う。ただ、そういう学習法が効果を発揮するのも意味を成すのも「目の前の定期試験を突破する」一面においてだけだ。いや、実際には意味すらなしていない。それは定期テストを作成する人物と授業をする人物が一致しているからこそ可能な芸当であり、授業で仕込んだようにテストを作れば成果をある程度は "捏造" できてしまう。やるべき作業を「コンパクト」にしたように見えても、実のところは例外が多く融通も聞かない穴だらけの方法である。"定期テストでは点数が取れても実力テストや模試では点数が取れない" という状態が生まれてしまうのも、こういうところに原因がある。
そもそも、我々が中高生に数学を勉強させる最大の理由は、数学の知識や技術を身につけさせることではない。それも無意味ではないが、あくまでも "抽象思考に慣れ論理的に理詰めで考える力を養う" という本来の目的を追った結果としての産物であるべきだ。かなり長いが、表題の書から引用してみよう :
目の前の試験を突破するのはとても難しいし、そのことにも十分な価値があることを否定はしないが、本来それが目的であってはならないということもまた忘れてはいけない。第 2 章で語るように、試験を突破するという現実を無視することなく、このような性質を帯びた指導をしていくことが、当面の僕の目標である。
1.3 数学での実践例 ~倍数の判定法~
ここでは僕が数学を教える一例として、新指導要領では数学 A の「数学と人間の生活」という単元で扱うことになっている "倍数の判定法" を扱ってみよう。数研出版の教科書『新編 数学 I』には次のようにまとめられている :
これらの判定法をまず事実として提示したうえで、この方法で判定できる理由を考えよう、という流れになっている。この時点では数学 B の数列で学ぶ一般の n 桁の数を表す術を持たないので、ここでは 4 桁の自然数の場合が扱われている。たとえば 3 の倍数の判定法については次のように導かれる :
ここでさらに 3(333a + 33b + 3c) をくくりなおして 9(111a + 11b + c) とすることにより、9 の倍数の判定法も同じように理解できる。しかし実は、この証明自体は中学 2 年相当の数学でもすでに扱っているので、この証明を理解し上記の判定法が正しいと納得することを目標にするならば、わざわざ高校数学で扱いなおす必要はない。高校レベルの抽象化能力を身につけるうえで肝要なことは、上の証明から次の 2 点を読み取ることにあると僕は思う :
自然数 N を "明らかに 3 で割り切れる部分" と "割り切れるかわからない部分" の 2 つにわけている
"割り切れるかわからない部分" は元の数 N よりも相当小さくなっている
まず、ある数が 3 で割り切れるかどうかを判定する最も確実な方法とは何だろうか。身も蓋もない答えになるが、それは誰がどう考えても
実際に 3 で割ってみる
ことである。これでいいのだから、中 2 になるのを待たなくても小学校 3 年生であれば十分に実践できるはずだ。それですべてが済むのだから、倍数の判定法なんてものを高校 1 年生になって新しくやり直さなければならない必然性はどこにもない。こういった素直で当たり前な事実を無視したまま、勉強する意味のまったくわからないものを押し付けようとすると、生徒は数学(勉強)を嫌いになりかねない。これは学習者に媚びているということではなく、ただ単に教科書に載っていることをそのまま教えればよいのだという指導者の怠慢を防ぐために必要な意識であると思う。さて、我々が倍数の判定法を欲する "理由" もまた素直かつ単純で身も蓋もない。それはもちろん
割ってみるなんてめんどくさい
からだ。443 を 3 で割るくらいならまだ許せるかもしれないが、もっと桁数の多い 42805739 を 3 で割るのは確かに面倒だ。人間とはできるだけ楽をしたい生き物であり、せっかく「数学と人間の活動」なんて単元を新しく作ったのであれば、どうせなら人間のこうした欲求を満たすために倍数の判定法は存在する、と素直に書いてしまえばいいと思うのは僕だけだろうか。冗談(本音)はさておき、ここまでの話をまとめると、"実際に割れば済むにもかかわらず、それでも倍数の判定法なんてものをわざわざ考えるのであれば、実際に割ってみる以上にラクな方法でなければ意味がない" ということになる。実際、たとえば 4 の倍数の判定法を見てみればわかるように、もとの数 N に比べて「下 2 桁」はかなり小さい数である。ここで重要なのは "下 2 桁" の前に "N が何桁の数であろうと関係なく" が付くことである。たとえば 4 桁の整数であれば N は小さくとも 1000 であるが、下 2 桁は大きくとも 99 である。これくらい小さくなれば 4 で割ることも容易いし、何なら「割る」ことさえしなくても目で見ただけで判定が可能である。当たり前かもしれないが、"ものすごく小さい一部だけを見て、場合によっては割ることさえせずとも楽に判定できる" ことが倍数の判定法の本質的な "うまみ" である。
さて、3 の倍数の判定法の証明でも見たように、もとの自然数 N が割り切れるかどうかを本質的に左右するのはこの "割り切れるかわからない部分" であり、先ほど紹介した様々な判定法は、それぞれのケースにおける "割り切れるかわからない部分" を詳述したものに過ぎない。残りのケースもまとめて解説しよう :
いかがだろうか。3 の倍数の判定法は 3 の倍数であることの判定にしか適用できないが、「"明らかに割り切れる部分" と "割り切れるかわからない部分" に分ける」という考え方はすべての倍数の判定法に適用可能である。そればかりか、この考え方を各々の場合に適用することで判定法を自分で導き出すことができるため、頭に入れる知識の量をかなり "圧縮" できる。考え方 1 つだけで上の 7 つの判定法を 1 つの体系立った塊として捉えることができるのだ。まさに「コンパクトで統一されており」、「例外がなく」、「融通が利く」考え方である。
また、このような理解をしていると、上の判定法を適用するよりもずっと簡単な方法があることに気が付く。たとえば 42805739 が 3 で割り切れるか考える場合、
42805739 → 805739 → 205739 → 25739 → 1739 → 239
ゆえ割り切れない、とすればいいのである。要は "明らかに 3 で割り切れる" ことがわかる部分をどんどん引いていって数を小さくしていくのであり、記号 → はその操作を行ったことを表している。具体的には左から順番に 42000000、600000、180000、24000、1500 を引いていったのだ。ここでさらに 239 が 3 で割り切れるかパッとわからなかったとしても、さらに 210 を引いてみれば 29 とより「小さく」なってわかりやすくなる。これがインチキに見えるという方は、ここで引いていった 6 個の数と余りの 29 に現れた 0 でない数字をすべて足してみるとよい。それはまさに「各位の数の和」に他ならず、教科書通りの模範的な解法であることまでわかる。他にも先に 5739 を除く方法も考えられる。ちなみに、高校数学において整数論を勉強するときに重要な「ユークリッドの互除法」や「合同式」もまた、まさにこの "元の大きい数を (重要かつ本質的な情報を備えた) 小さい数に書き換えて考えやすくする" ことを本質的な動機としている。そこさえ外さないようにしていれば、整数の勉強で路頭に迷う可能性はかなり軽減できるものと思う。
もちろん、本来つながりのないものを無理矢理一本の筋にまとめようとして嘘を入り混ぜるのは本末転倒である。自分の説明に独自性をつけるために数学を不当に傷つけるようなことがあってはならない。数学教員にはそれ相応の数学への造詣と敬意が求められる。
また、いつもこれでいいのかと悩むのは、こういったまとめ方は自分で気づいたほうが絶対にいいということである。人に教えられたことはすぐ忘れる一方で、自分で捻り出したものは大事にするし簡単には忘れられない。考えるきっかけを与えたつもりでも噛み砕かずに知識として丸ごと暗記される恐れもあるので、変な受け取られ方をされるくらいなら触れないでおく、というのが安全でもある。頭でっかちになる恐ろしさはかねてより「習うより慣れよ」という諺にも言われているし、寿司職人が寿司を握らせてもらえるようになるのに長い年月を要するのは、知識としてではなく師匠の様子から感覚として学びとるためにどうしても必要だからだと思う。富田先生のいう「観察力」を身につけるには多く経験を積むことが必要不可欠なのも事実だ。
しかし、そもそも慣れたり観察力を身につけたりする以前に「習う」段階で挫折している学習者が大量にいる事実を無視してはいけない。学習者にも問題があるケースも多分にあろうが、指導者の力量不足に問題があるケースもまたそれに負けず劣らず多くあると思う。「青チャートを3周する」とか「ルートにある 4 冊とか 5 冊もの参考書を "完璧" にする」「徹底的に先取りをする 」「1 日 14 時間勉強を 1 年間続ける」とかいう、それこそ「辞書を食べる」を地で行くような方法論ばかりが先行してしまう現状に、指導者の見識のなさがありありと現れている。大人の力不足のためにこんな無駄な苦労を高校生に強いて体裁を整えるような業界であってはいけないと強く思う。先ほど富田先生の言葉を引いた際に "「慣れ」を教えているだけでも一部に「発見」という新たな方向を自ら見出して成功を収める学習者も出る" という部分を黒字で強調したが、華々しい結果を出しているように見える教育機関はたいていこのような学習者を多く抱えているだけなのである。ここの部分をはき違えて、学習者の不安につけこんで扇動したり考える力を奪ったり、大人たちの都合に巻き込んでいらぬ苦労を強いたりしてしまうと、「モノを教える」という仕事はいとも簡単に国益にかなう将来への投資から単なる暴力的な水商売へと急落してしまう。
2 理解させることをほぼ放棄している高校数学の現状
富田先生の場合は英語だったが、ここでは僕が専門とする数学について、その検定教科書を踏まえて 2 つ疑問に思うことを書いてみたいと思う。僕は今、所属するジェイラボ未来部において、シン・コアレクチャー作成プロジェクトの一環で検定教科書を精読している。ちょうど新指導要領へ移る途中にあるという都合で、まだ数学 I, A, II の 3 冊しか世には出回っていないため、まずこれらを順に読んでいっている。だが、数学 I の 1 冊さえも読み終わらない現段階でもうすでに、かなり闇の深い状況に頭を悩ませている。
2.1 「解法暗記」を助長する検定教科書の構成
そのことを示す具体例の一つとして、数学 I の 2 次不等式の分野を挙げよう。精読会で使っている教科書には、次のような表が大きく掲載されている :
それなりに数学ができる方であれば誰でもわかることなのだが、「判別式の値の正負でなぜグラフと x 軸の位置関係がわかるのか」を理解し、「グラフを描いて y 座標を見る」というまとめ方さえすれば、この表に書かれてあることは暗記するに足らないのだ。「コンパクト」で「例外が少なく」「融通が利く」形にするためには、表として具体化するのではなく、"考え方だけ示してあとは個々の場合に適用する" という方法をとるべきなのだ。もちろん、テキストとして結論を書かないわけにはいかないという事情はあると思うのだが、あたかも重要な公式であるかのようにでかでかと載っているこの表を「暗記しないで考えろ」と言われて、教わる生徒が支離滅裂だと感じてしまうのもやむを得ない。それならわざわざ大事そうに書くなという話である。だから僕には、この表を覚えないといけないのかと考える生徒がいたとして、彼らを責める気にはとてもなれない。
また、載っている問題も十分に練られたものとは言えない。具体的には、練習例題の数値を変えただけの問題を置くことで、同じ作業をするだけで答えにたどりつけるようにするのだ。この構成が原因で、あたかも公式や道具の "当てはめ方" を学べばいいかのように錯覚してしまうのだと思う。数学はただでさえ苦手意識や嫌悪感を持つ学習者が多い科目であり、そこに難しい内容を叩きつけて余計に数学離れを加速させるわけにはいかないので、誰にでも答えが出せるような "接待" が行われている。ゴルフをやって上司の機嫌を取るだけならそれでいいが、学習者をいい気分にしたところで、その後少しひねられた問題にあたったときには化けの皮が剥がれてしまう。"定期テストでは点が取れるが実力テストや模試では点が取れない" という病状はここにも原因がある。
2.2 数学を 6 つに分断する愚策
2022 年度からの新学習指導要領のもとでは、たとえば理系学部に進学する生徒の場合は最大で "数学 I"・"数学 A"・"数学 II"・"数学 B"・"数学 III"・"数学 C" の 6 科目を大学入試で使うことになる。これを言い出したら終わりなのかもしれないが、高校数学を 6 冊にも分けて学ばせるカリキュラム構成自体が決定的によくないとどうしても思ってしまうのだ。たとえば、
数学 I の「数と式」 と 数学 II の「式と証明」
数学 I の「三角比」 と 数学 II の「三角関数」
数学 I の「データと分析」 と 数学 II の「統計的な分布と推測」
数学 II の「複素数と方程式」 と 数学 C の「複素数平面」
数学 II の「微分法」 と 数学 III の「微分法」
数学 II の「積分法」 と 数学 III の「積分法」
数学 B の「平面ベクトル」 と 数学 B の「空間ベクトル」
などは同時に学んだほうが明らかに効率的だと思う。それが様々な事情により細かく分断されて教えられている。こんなにも分断されて教えられている科目は数学しかない。新課程では歴史総合なる科目が導入されることになったらしいが) 僕が高校生のころには "世界史 A" と "世界史 B" の 2 種類があったり、理科は "化学基礎" と "化学" のように 2 段階に分かれていることもあるが、数学のように 6 つにも分断されることはない。先ほど述べたように見かけの負担や難しさを軽減するという理由もあってのことか、数学の教科書というのは他の科目に比べてかなり薄く作られている。実際、精読会で使っている数学の教科書は 160 ~ 250 ページほどなのに対し、たとえば山川の詳説世界史は 450 ページもある。そういう見かけだけの取っつきやすさではなく、富田先生が掲げるような本当の意味での学びやすさを備えた教材作成や指導にあたっていきたいと考えている。教科書の分断が、体系化の権化ともいえる数学という科目を不必要にややこしく、そして「コンパクトで統一され」ていて「例外が少なく」「融通が利く」ような指導を難しくしてしまっているように思えてならない。
3 終わりに
以上 15000 字にもわたって長々と書いてきたが、要は僕が数学および勉強の教えられ方に多くの問題点を感じているということである。それを正していくなどという思いあがった考えは持っていないが、せめて自分のできることをなるべく誠実にやっていければいいと思うし、この記事を推敲していく過程で当面の自分のやりたいことの方向性が定まってきたように感じる。いや、10 年ほどから表題の書を繰り返して読んできたことからすれば、それほど考えは変わっておらずやっと形にする覚悟が決まってきたと言ったほうが正確なのかもしれない。もうすぐ 25 にもなろうとしている身で情けないが、人生はまだ長い。自分のペースで頑張っていきたいと思う。