「日本航空一期生」を読んでみた②
前回のブックレビューからの続きを書く。https://note.com/primecharm/n/naf8ee4326c1d
今日は76回目の終戦の日である。2021年8月15日。
日本航空はよく「親方日の丸」「半官半民」「お役所商売」、ブルーの会社に比べて「商売が下手」「やることが遅い」と言われていた印象がある。
そりゃそうだよ、しかたないでしょうと、この本を読むと思う。そうせざるをえなかったのだ。
この本によると、CA(当時はエアガールと呼ばれた)の最初の募集は昭和26年(1951年)、まだ戦後多くの人々が混乱の中で新しい世の中を必死に築こうとしていても、航空に関しては連合国(ほぼアメリカ)の占領下。従うしかないという感じだったのだろう。戦後GHQの統治下では、航空に関すること、軍事はもちろんのこと、研究、教育、製造、運航すべてが禁止されたのだそうだ。せいぜい紙飛行機を作ることくらいだったのか。
戦いのためだった飛行機を、平和のための飛行機に転換していく過程は、
招集されながらもなんとか生き延びた松尾静磨氏の存在がなかったら存在しなかったかもしれない。
平和な空がいつまでも続きますように。旅客機が盛んに飛ぶ日はまだ先かもしれない。けれどこの本を読んであらためて平和な世の中をひとつひとつ作り上げていった日本の一企業の軌跡が分かる。
一般的に外資系の会社というと高収入で能力・成果主義で・・・というイメージがあるが、当時もし日本の航空会社が存在せず、いわゆる外資系の航空会社しかなかったら・・・日本人は他の分野においても世界に存在をアピールできなかったのではないだろうか?
まずは日本人が日本の会社というものを作って、年功序列・終身雇用にしてなんとか世界で戦えるレベルになる。
それが当時の最善のビジネスの世界での戦い方だったのだろう。その代表例が日本航空だったのかもしれない。
昭和のその時代があったから、グローバルだ世界進出だと言えるのだろう。
この本によると白洲次郎氏ははじめから外国資本を主にしての日本の航空業を展開しようと考えていたようだが、だとしたら?飛行機はアメリカのお下がり、サービスはあくまでも形だけ、事故の調査はうやむやなどとなったのではないだろうか?
揺れる機内の中で、あやまってお客様の洋服に飲み物をこぼしてしまうという事例があった時、上司に報告の上、クリーニングクーポンを出すことが社内規定となっている。これはかつて国際線就航間もないころ、機内でお客様の背広にマティーニをこぼしてしまって、責任者だったCAが自腹でクリーニング代を支払うという過去があったからマニュアルになったそうだ。世界基準で考えると、そこまですることはないのかもしれないが、話し合いとかではなく社内の決まりであることが日本の会社らしい。
採算度外視でとにかく定期運航できること、毎日同じ時刻に同じ行先で客を乗せて飛ぶ。飛ぶことに様々な障害、アクシデントがたえなかった。だから頭をさげて飛行機に乗っていただくという時代があった。
なかなか日本人のパイロットが運航することを許されなかった時代が長く、コックピットに入ろうとするとアメリカ人パイロットに暴言をはかれ悔しい思いをしていたこと、飛行機整備をなかなか教えてもらえずに盗み見るようにして学んだ当時の整備技術者のこと、なんとか女性も働き続けられるようにCAが職業として成り立つように尽力されていたこと。
次に飛行機に乗るときはますます感慨深い。いつになることだろう?
To be continued・・・
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