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【エッセイ】おしゃれすぎるとスルーされる、絶妙なダサさを手に入れる。

広告媒体の取材中に「最近反響が少ないんだよね」と言われることが重なり、ちょっと考えたこと。

「もしかするとダサさが足りないのかもしれない」

20年ほど前、地方情報誌の編集職に転職した頃。

「地方誌をおしゃれにしようとして、表紙は白バック、ananとかHanakoっぽいおしゃれぶったデザインにリニューアル。もちろん本誌内部の記事も白場がいっぱいのハイセンス風」を導入したら売り上げが爆落ちしてしまい、編集長を差し替えたばかりだった。

新しい編集長は、根本的に方向転換して「1ページに10軒ほど店をぎゅうぎゅうに詰め込む」ような誌面作りを行い、編集部員は取材をしてもしても終わらない日々が始まっていた。

だけど、売り上げは戻った。

ただ、当時はまだCanCamが月間数十万部も売れていた頃なので。

今とは世界線が違っている。

10年前の本を思い出した時

ただ、「もう紙媒体は無理じゃないか」ということで縮小するのは悲しいので。考える。

「最近効果が少ない」と言われた媒体の昔を思い出した時、どう考えても今よりも洗練されてはおらず、フォントの使い方とか、デザインなどが絶妙にダサかった。

それを洗練させ、写真の撮り方も研究し、内容をブラッシュアップしてきた結果はまとまってきて見やすい。

でも「見た目オシャレでハイセンスで憧れ」を追求すると、「それはSNSと何が違うのか」という課題に近づいていく。

見開きが使える雑誌だからできること。
スクロールしなくても読める紙だからできること。

それは例えば、読む人が欲しい情報を選別し、羅列方法をアレンジするだけでもよく、「価格をバーンとわかりやすくする」とかもアリかもしれない。それでデザイン的に「ダサッ」となったとしても、そのちょっとしたダサスパイスが味となる(かもしれない)。

何かもうちょっと工夫できる余地があるんじゃないかな、と考え、心の中にメモ。

そこで私が考えた「ちょいダサ案」

「どうしたらちょっとダサスパイス」をブレンドできるか、について、さらに思案する。

野暮ったさが加わればいいのかもしれない。例えば今、誌面を綺麗に作ろうとして、「野暮ったくて雑多な印象」に見える写真を選ばないことが多いけれど。

もしかして、あえてそれを入れてみたら、視覚的に「ちょっとダサい」がかなうのではないか?

ほかには、綺麗に文字数をきっちり仕上げるのではなく、「最後の行、あと5文字くらい入れる方が良くない?」くらいの中途半端さに止めるとか(いやいやいや)。

どうかなあ。

どうもねえ。

いっそのこと、スマホだけで撮影してみて素人っぽさ全開にするページを作ったり、
「体験しました!」的に書き手の顔をドーンと見せるような感じにしたり。

その媒体だけ、そのページだけの企画を盛り込んで、オンリーワンを突き詰めるとか。

どうでしょう。どうでしょうも何も。

むしろ、私が「そういうちょっとダサ」な何かを自分で作ってみたらいいんじゃないかという結論に近づいてきた。

時代はずっと同じスタンスで動いてはくれないので、常に変化し続けなければいけないが。変化するときに、洗練されすぎないように、無駄をそぎ落としすぎないように。

以前、NHKの公開収録でクラシックを聴いた時、無知な私は「寝るつもりいっぱい」で視聴しに行ったら、上手すぎて1秒も寝なかった。それとは反対に、町内のお祭りでその辺の小学生がボイストレーニングの成果を披露するために歌っていた時も、絶妙に下手で全然眠くならなかった。

だけど、ボイストレーニングの先生が歌い始めたら、「普通にうまい」ために眠くなった。

この匙加減。

絶妙だと思う。


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ライター和田知子:CLANG CLANG クランクラン
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