見出し画像

3月になりましたね。

 3月になりましたね。

 今日の東京は、数日前の寒さは何処へやら。
 日中はとても暖かく、穏やかな感じの一日でした。

 先月は、長男のところに赤ちゃんが生まれたので、僕にとっても思い出に残る2023年の2月となりました。(孫の出生図を出しておこうと思っているのです。)

 話は変わりますが、あと3週間もすれば、春分が訪れます。
 春分以降、本格的に“2023年”の運気の流れへと入っていきます。占星学的には「その年の運気の流れ」を見るときには春分の星の配置を見るのです。つまり、春分を迎えるまでは昨年の流れ、名残のようなものがまだ残っている、というわけです。

 日本国内では、昨年度の超過死亡の統計の数字が出てきていますし、各都市での超過死亡数もとんでもないことになっている、と聞きます。SDGsの流れなのか、高校の給食にコオロギ入りのものが出され猛クレームが起きているとか、某メーカーのパンが静かな不買運動の対象となっている、という情報も目に留まります。

 仕事柄、いろいろな人の悩みに耳を傾けるのですが、そのほとんどが「人間関係」について、です。(ある人に言わせると、健康、お金、人間関係、夢の四つのカテゴリで全ての悩みは分類される、とのことらしいですが。)

 その「人間関係」も、自分自身との関係と、他者との関係に分けられますが、人から自分がどんなふうに見られるか?どんなふうに思われるか?を恐れるあまり、身動きが取れなくなっている、というケースもよくあります。

 人に自分を”どう見せるか?”と“どう見えるか?”は違います。

 どんなふうに見えるのか?を意識するのは客観的な視点が強いです。一方で、“どう見せるのか?”というのは、自分自身が相手に感じてもらいたい、というものがあって、それを伝えるという意図がある能動的な表現です。

 世界に溢れている「情報」も、同じことが言えます。

 ある一つの情報が「どう見えるか?」の視点で受け取るのと、「どう見せようとしているのか?」という視点で受け取るのとでは、意味が変わってくるのです。

 どの国においても、どの時代においても、政府や支配層の人間たちは、大多数の国民や一般人を「導きたい方向」というものを持っています。何らかの「意図」が隠されているわけです。

 多くの人は「自分は意識的に生きている」と考えいてるでしょうけれど、実のところ、ほとんどは“反応と印象操作”によって、心を緩やかに支配されているようなところがあります。

「奴隷を奴隷のままでいさせる方法は、
 “自分は自由だ”と思わせておくことだ。」

というようなことを、いつかの時代の誰かが言ったような話を耳にしたことがあるが、実際本当にそうだと思う。

 スピリチュアルな話の中では、

“自分自身の意識の光によって、うちなる闇に光をもたらす。”

ということを目指していく姿勢のようなものが語られることがあった。(今となっては、という感も否めないが。)

「悟り」という言葉は、英語では“enlightenment”という。

“en-"という接頭語が、“light”(光)という言葉とセットになり。「光をもたらす」「明るい状態にする」という意味がある動詞となり、それがさらに名詞化されて、“enlightenment”となる。

 意識の光をもって、自らの無意識を照らす。

という作業は、途方もない作業なのだろう。このスピードばかり求められる今の時代には、こんなことに取り組もうとする人の方が変わり者なのかもしれない。

僕は、自分は「変わり者」でいいと思っている。

なぜなら、多くの人たちが賛同するからといって、それが正しいものであるとは限らないことを、知っているから。

僕にできること、それをやっていこう。

stand.fm 妻と二人で配信しています。
“Primaria☆Stone 〜Spiritual Voice〜"

電子書籍
『最後の恋 永遠の愛』(Kindle版)
Amazonにて、販売中!

いいなと思ったら応援しよう!