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田舎出身の純ジャパが清華大学に入学した話③

こんにちは!你好! Bonjour!
プラギャです。

プラギャのお話に③巻目までお付き合いいただきありがとうございます🙇‍♀️
本日は高校最後の1年間のお話になります。

①②巻はぜひこちらからお読みいただけると嬉しいです↓

思わぬ壁

大学受験に向けての最終調整。

中国語能力の証明であるHSK、英語能力の証明であるIELTSは受験済み。
あとは、統一試験であるSATの受験が残されていました。

SATは、当初かなり対策に苦労した試験でした。
最初のレベルチェックテストでは1600点満点中1100点程度と目標にはほど遠く。
特に読解の部分が苦手でしたが、1550点の取得を目標にコツコツ勉強を重ね、模擬テストのスコアは順調に伸びていきました。

そうして受験を控えた本番1週間前。
目を疑うメールが届きます。

「中国大陸から渡航されるようなので、あなたの試験をキャンセルとさせていただきました。」

…え?
出入境管理局に自分の状況を説明して問い合わせ、渡航・滞在の可否も確認済み。
そのことを試験主催側に伝えても、ただ同じ理由を繰り返されるだけで、ついに受験を認めてもらえることはありませんでした

こんな理不尽なことあるか。この時ばかりは憤りを覚えました。1年近くかけて頑張ってきたのに、全部水の泡になるとは。

この試験に参加できないことで、日中ともに予定していた大学への出願を一部諦めざるを得ない状況に陥りました。
その中には北京大学も含まれていました。

しかし。
ここで私はまたしても無鉄砲な決断をします。
北京大学は、当初SATの提出で筆記試験の免除を申し込む予定だったところを、これまで全く準備をしていなかった筆記試験選択に切り替えて出願することに。

今考えると、当時はどれだけハングリー精神だったのかと思います。
流石にこれには高校の担任もびっくり。
でも私は、理不尽な理由で自分の決めた道を断たれたくなかった
その思いで、すぐに高考の参考書を購入し対策を始めました。

最大の挑戦

そんなこんなで、ひとまず中国の大学受験に挑戦することになったプラギャ。

出願校は、清華大学の人文社会学類と、北京大学のジャーナリズム・コミュニケーション学部の2校。

両校ともにまずは書類選考があり、成績やスコア証明意外にも、自己PR動画や志望理由書、推薦書などたくさんの材料を用意する必要がありました。
出願して1-2カ月で書類選考の結果が通知され、結果はどちらも通過。ひとまずほっとしました。

そしてそのまま筆記試験と面接に向けて準備を進めていきます。

北京大学の筆記試験に関しては受験科目が公表されており、先輩の合格者もいたため少し情報もありました。
一方で清華大学の筆記試験は、総合試験と呼ばれており試験の内容が全く明かされていないという状態でした。
外国籍生徒が中国の大学の入試対策をする予備校のようなところもあるそうですが、自分は所属しておらず、高校に前例もなかったので完全に一か八かの勝負でした。
その分、北京大学を筆記試験選択に変えたことで、中国国内の学生用の入試である高考の問題を使用し対策を進めることになったので、ある程度清華の対策にもなるだろう…と信じて頑張りました。
そう、何事もポジティブに。

面接は、集団面接と個人面接それぞれに対策を進めていきました。中国語と英語両方で準備しました。
中国語の面接ははじめは難しかった…
自分の話をする練習では「インパクトがない」と言われ、グループディスカッションを想定した練習では時事問題に対して自分の立場を即座に決めて話すことが難しく、詰まりまくり。
でも国語(中国語)担当だった担任の先生に根気強く指導していただきました。

どんなに勉強大好き、楽しい!のスタンスを貫いてきた自分でも、大学受験という大きな人生の岐路を前に、不安とプレッシャーでくじけそうになることもありました。
それでもあなたならできる、大丈夫、と私を信じて応援し続けてくれた先生には今でも本当に感謝しています。

この時、誰が想像したでしょうか。
再び学校に通えなくなり、一歩も家の外に出られなくなり、食べ物すらも手に入らなくなる日々がやってくるとは。

置かれた場所で生きていく

異変を感じ始めたのは、冬休みが終わり高校生最後の1学期がスタートして間もないころでした。
コロナの感染状況が再び悪化し、2022年3月中旬、再び学校がオンライン授業に切り替わりました。

そして、上海がロックダウンされることが決まります。
2020年の頃は、上海はロックダウンという形ではなかったため外出は控えさせられていたものの、物流は動いていました。
ただ、今度は物流もストップしてしまう。

数日で終わる、と言われていたロックダウンは、数カ月に及ぶことになります。

ドアには規制線が引かれ、外に出られるのはPCR検査の時だけ。物流が止まっているのにもかかわらず、十分な食料は支給されませんでした。育ちすぎて食べられない野菜が配られることもありました。

そんな中で里親は、小売業者と話をつけて手に入れたお肉や、近所の人から工面した餃子を私に食べさせてくれました。
そのことを思い出すと、今でも涙が出ます。自分たちの食べる分も十分になかったのに、あなたが食べなさい、と。

私は本当の子供じゃないのに、どうしてこんなによくしてくれるのか、と部屋で何度泣いたかわかりません。

こうして、ロックダウンの中、周りの人の支えを受け、なんとか受験を終えました。
結果は、北京大学、清華大学共に合格をいただきました。
合格通知を見た時、この3年間ずっとどこかで気を張っていたのがようやく緩んで、肩の力が一気に抜けたのを覚えています。

留学生活の終わりに、形になる結果を残せてよかった、と純粋に嬉しかった。

しかし、日本の大学受験に向けて再度ギアを入れようとしていたところ、再び思いもよらない事態が発生します。
なんと、ロックダウンの混乱で出入国管理局が機能しなくなり、居留許可の更新ができなくなった私は、出国を制限されました。

学校側も動くことができず、今度は日本の大学出願に必要な書類を発行することはおろか、取りに行くことすらできない。日本で統一試験を受けなおすこともできません。

日本に帰れない。
受験に間に合わない。

これから、どうやって生きていったらいいんだろう。

考えに考え抜いた末、出した答え。
それは、中国に残り学び続けることでした。

日本の両親に電話をして決断を伝えました。
日本の大学は受けない。東京大学の受験は諦める。
私は、清華大学に入学する。


最後の1年まで本当に色々なことがありました…
今でも思い出すと、正直つらいと感じるときがあります。

だからこそ、今こうして自由な生活が送れていることを、本当にありがたく感じています。
次回は現在のプラギャの視点から、高校3年間の葛藤と決断についての考えを共有できればと思います。

それでは、本日はこの辺で失礼します🙇‍♀️

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