ライティングの哲学と私たちの仕事
ライティングの哲学というだけあって、執筆に関する苦労とそれへの対応(というか諦め)が書かれている。タイトルだけを見るとやや取っつきにくい感じもするけれど、中身は対談形式であることもあって読みやすい。しかも表紙はあらゐけいいちが描いていて猫がかわいい。
四人の作家(文筆家)はそれぞれ書けない書けないという苦労をもっており、その苦しみに対してどのように乗り越えてきたか(あるいは乗り越えられなかったか)ということが話される。
その4人は千葉 雅也、山内 朋樹、読書猿、瀬下 翔太。
この内ひとりでも名前を知っていれば、より興味深く読むことができるかもしれない。
ところで執筆の苦悩と言われても私たちにはピンとこない。
私たちは小説を書かないし評論を書かないし詩歌を書かない。
なにも書いていないのだから執筆の苦悩を知る由もないではないか。
いや、実はそうではない。
思い返してみれば日報を書いているし稟議を書いているしメールを書いて取引先とやり取りをしている。
実はそれだって文章を書くという視点から見れば執筆なのであった。
そこから考えると、まあわざわざそんなことはしない、というだけで、日報がなくて四半期に一度"この四半期どうだったかのまとめを書いてよ"と言われれば、途方に暮れるでしょう。真っ白なワードの(あるいはパワポの)画面からなにかひとつの文章を生み出すのは思いのほか苦しかったりするのである。
本書のなかで語られるのは、ひたすらに、"この真っ白な原稿に向かうという苦悩"であったと言ってしまってもよい。
そして、それはすなわち無限の可能性と戦うことだと言い換えることができた。
真っ白な原稿にはなにを書くこともできる。
なにを書くこともできるというときに、ひとはもっとも理想的な文章が表現されることをそこに"期待する"。
期待するというのは、「私は作家なのだから理想的な文章を書きたい」という願望でもあるし、「私は作家なのだから、それなりの文章が書けるだろうと思われているはずだ」という思い込みでもある。あるいは、「(別に書かなくてもいいところを)わざわざ書くのだから、より良いものにしたい」という貧乏人根性なのかもしれない。
いずれにしろ、そのような期待をもって、ひとは真っ白な原稿にむかう。
真っ白な原稿のままであれば、そこになにも書かないでいられれば、無限の可能性が広がったままでいられる。
どんな言葉でも書かれる可能性がある。どんな方向にも話が広がっていく可能性がある。
ところがそこにつらつらと文章を書いてみると、その書かれた文章から繋がることのできるような、そこから広がることができるような内容にしかならないことがただちに思い知らされる。
無限の可能性が広がっていた原稿には、既に可能性が縮小し硬直した現実しか残されていない。
梅棹忠夫は『知的生産の技術』のなかで、知識を得たらカードに書いて整理するのがいいと私たちに教えてくれた。そして、それと同時にカードに知識を書いて整理することが容易ではないと案内することも忘れなかった。
冷静に考えてみれば梅棹忠夫ですら“恐怖にうちかつだけの精神の強度”が必要だと説いているのである。なんの訓練もしていない私たちにとってそれはいかなる困難なのかは推して知れるではないか。
しかしこの無限に対する戦い(あるいは有限化されることに対する戦い)ともいえる感覚は、私にとっては仕事において非常に感じるものであった。
わざわざそう考えながら仕事をしていた訳ではないけれど、振り返って自身を分析的に記述すれば、おおよそ次の通りになる。
会社で仕事をしているからには、私の行為はなんらかの水準において評価される対象になりうる、と考えることができる。
評価されるのであれば、よりよい評価をされるような仕事をこなしたい。
ところで、よりよい評価がなされるような結果に向けて、どのような行為をなせばよいのか?
例えば初見の相手に営業電話をかける時に、事前にどのような人物なのかという(もしくは担当者か等の)情報を知り得ないにもかかわらず、一体どうやって電話すればいいのか?
相手がなにかを言ってきたときには、それに対してどうやって切り返すのが最善なのか?
以前他に誰かが営業をかけていて仲が良い相手なのに、わざわざ電話をすることでクレームにならないか?
意を決して電話をしてみたときに気の利いた営業トークができずにガチャ切りされた私を見ないでくれ。
なんとかアポイントの取得に漕ぎつけようとして長々と相手に寄り添ったような会話をして、なのに結局大した情報も引き出せずに電話を切られた私を見ないでくれ。
そんな評価はされたくはない。
こんなはずではないのに。
こんな終わり方ではないはずなのに。
電話をしないままでいれば、例えばそこにはアポイントをとれた未来も想像し得るし、そこからさらに進んで契約が取れる未来すらも想像し得る。だが、現実は悲惨で、特に感情もない声で「いや結構です」と言われるだけだ。
電話さえしなければ、そこには無限の可能性があったのに。
……というような全く意味のない水準でぐるぐると考えごとをしていたのであった。
一応繰り返しておくが、別にわざわざこのように考えごとをしながら仕事をしていたのではない。ただ、心の奥底ではそう考えざるをえなかった(あるいは、そう思いたかった)だけなのだ。
文章にしてみれば非常にしょうもないことが分かる。
別に分からないことを考えたってしょうがないし、電話してみろ。
どんな切り返しをしてくるかを考えてもキリがないから、電話してみろ。
クレームになったら別に謝ればいいから、とりあえず電話してみろ。
別にお前のことなんか誰も気にかけてない。
その電話一本に生死がかかっているかのような顔をしてもしょうがない。断られたらまた間を置いて電話すればいいし。
箱の中の猫が生きているか死んでいるかを知りたかったら、とりあえずその箱の蓋を開けるしかない。仮に、その開け方の如何によって猫の生死が多少なりとも左右されるのだったとしても。
ところで『ライティングの哲学』のなかでは、その執筆に対しての苦しみはどのように解決されたのか? あるいは、対策されたのか?
その応答はいくつかあるので詳しくは本書をご覧いただきたいのだが、言ってしまうとその大部分は“諦める”ことであった。かなり潔いと思いませんか。
そして、ここで取り上げたいのが“取り返しのつかないことをする”である。これはどういうことなのか。
まずは庭に石を置いてみろ……というときの“石“というのは手のひらにおさまるような小石ではなくて、私たちの感覚からしたときには“岩”と呼べるようなものだと想像すると分かりやすいかもしれない。
そのクソデカい石をなにもないまっさらな庭に置いたとき、その石があるならばここはこうした方が……とその石が次の石を呼ぶ。次の石は更にその次の石を呼ぶ……というように庭が徐々に作られていく(というより、自らできあがってゆく)。
石を置くというのは手がかかる。デカければデカいほど重いし、家具や家電と違って持ち手もついていないから運びづらいし、一度そこに置いたあとに「やっぱりこっちに……」というやり直しは最早できない。
原稿もこれと同じように考えることができる。
白紙の原稿につらつらと文章を書いてみると、その書かれた文章から繋がることのできるような、そこから広がることができるような内容にしかならない。だけど、そのようにしか書けないのであれば、そのようにしかならないのであれば、実はその状況がある意味では非常に楽であることを私たちは忘れてしまっていた。点線を鉛筆でなぞって一本の線を描いていくように、原稿の上に書いた文が乞う文を次々とそこに書いていけばいい。そこになんの問題があったのだろう。私の書いた文章が次になにを呼ぼうとしているのか、そこにそっと耳をすませることが大切なのだった。
また、仕事においてもこのメタファーがよく機能する。
相手が個人であっても法人であっても、電話をかけた先の相手の声色や応対の姿勢によって、私が“なにを言わなければならないのか”がある意味では自動的に決まってくる。
自動的に決まるというその仕組み自体は、私にはうまく理解できず(そもそも理解する、ということ自体が不要でもあるが、だからこそ営業成績自体は良くなかったのかもしれない)、その営業マンによってやり方は千差万別で、ただ意識的に次はこう言ってその次はこう話して……と考えている、というよりは、相手とのやり取りの中で、私が発する言葉がほとんど自動的に生じてくる、と言った方が、たぶん、適切であったりする。
これはなんの考えもなしに電話をしているからではなく、これまでずっと考えに考えて電話をしていたから、だからこそ“その型が身について”、結果的に自動的になっている、ということなのであった。
そして、その自動的な構造が立ち上がるためのトリガーとして、私たちはまっさらな庭にクソデカい石をひとまず置いてみるのである。
取り返しのつかないことをする……という意味で営業電話をかけるというのは、全然取り返しのつかないことではないじゃないか、ときっと多くの人は思うのだろう。ただ私にとってはその思考の跳躍が必要だったというだけなのかもしれない。
無限の可能性という夢にトドメを刺して、現実を生きていくためには、少なくともそうしなければならなかったし、実際に今もそうしてなんとか重い腰をあげて、分量でいえば大したことのない仕事をやっと始められている。
これは諦めとも言えるのかもしれない。
(諦めて電話しろよ、と過去の自分を振り返りながら先程私はこの文章を書いた)
文章にしてみると非常にしょうもない苦悩を私たちは抱えている。
やり甲斐のある仕事をしたいけど、苦しみは味わいたくはない。
キラキラした仕事をしたいけど、泥臭い仕事はしたくない。
人から羨ましいと思われたいけれど、恥はかきたくない。
契約は取りたいけれど、電話はかけたくない。
本当はそれらを分割して考えることなんてできないのに。
これからどうするか、なにをするのかを考えるとき、無限の選択肢が目の前に広がってめまいがすることがある。そのめまいは私たちにとっては幻覚で、見えもしない無限をそこに見出してしまっているのだった。
私たちはそこにクソデカい石を置くことで無限と戦うことができる。諦めることで有限化に対する恐怖をなるべく無視して生きていくことができる。
そして、未来に無限を見てしまうように、過去にも無限を見てしまうのが私たちなのであった。
あの時こうすればよかったんじゃないか。
あの時ああすればよかったんじゃないか。
過去なんて、なにをどうやっても変えることができないのに、私たちはなにをおもしろいと思っているのか、子どもが砂遊びをやめられないようにずっといじり続けている。
そこにはきっと、こうなるはずではなかったのに、という諦めようにも諦められない気持ちがあるのだろう。遠い夏の日にグラウンドに立ち尽くしたことを私たちは思い出す。
それでも、“これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこれ(執筆だったり、仕事だったり、あるいはスポーツだったりするもの)を最後まで遂行するのだ”(本文より引用)、と引き受けることから全てははじまるのだった。
私たちはいま一度過去を振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
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