ポスト自助社会/間違う前は正しかった


子供たちとの苺つみが教えてくれたこと

ウチのマンションでは、敷地内に果樹や野菜を育てており、先日はマンションの子供たちを誘っていちご摘みをしました。子供たちは夢中で楽しみ、いちご摘みにも虫取りにも本気で取り組む姿が印象的でした。子供たちを見ていると、大人とは異なる「正直さ」を感じます。

子供たちの自発性と社会の歪み

僕自身は子供の頃を思い出しつつ、社会における子供の立場について考えるようになりました。社会に溶け込めなかったため、外側から社会の様子や社会に仕組まれた人々などを眺めることはできたのです。

子供は自発でやる。子供達の熱意をみていて、そういったものが効率や合理を重視する現代社会の中で軽視されがちなことに気づきました。努力を楽しめる社会を求めていくことが、人間いきものの社会としても、各人としても素直なものではないかと思います。

大人も正気に戻ったら、状況や仕組みではなく、子供のように努力を楽しめる私が欲しいのではないでしょうか。

それなのに環境が私を変えるといって、状況や仕組みを求め自分の周囲をリセットしたがったり、効率や合理のフィルターに引っかかったものの中で考える癖があると思います。でもそれは、能力:適性の成長過程を切り捨てていると思います。


近代の夢と目標が作りだす問題

現代社会では「夢」や「目標」を設定し、それに向かって突き進むことが良しとされますが、これらは効率優先に都合よく作られた価値観でしょう。その結果、人々は個々の適性や自然な成長を切り捨ててしまう。

デンマークの友人たちに、日本的な懐かしさを感じます。北欧神話を学んでその理由がわかりました。それによれば世界の破局(ラグナロク)の後に我々は生きているからです。つまり未到の状況に向かう世界ではありません。現実をしっかりつかんでいくこと、バランスの取れた現実を保とうとする感覚です。

社会の設定がうむ排除と困難

条件の絞り込みが社会に広まれば、脱線をしないで生きる条件を厳しくして、自由や再起の難度をあげるでしょう。しっかりした設定の社会なのだから、イレギュラーな存在は不都合です。会社ならまだしも、そんな観念で社会を作ったら、人間の状態を選びます。

今は合理化が当たり前で、合理的に考えないから劣っていると、「ヒト物事」を切ってしまいます。例えるなら、サイコロで6を出せと規定してくる世界。そして6を出したいよと先に決める大人たちの社会になっています。そしてこうすればよいのですとパッケージされています。

社会も世間も饒舌に、うまいことをいって先行者だけの社会に変化していく。同時にその分、謎の設定が細かくなって、再起がより困難になっているでしょう。よりよくなってニコニコ世知辛くなっています。世界観や価値観で社会階層が決まり、集団で指示を理解できるように教育されて、大人に変わっていく。

プレイスとスペースの必要性

社会の中で「プレイス」と呼ばれる場が整備されることは重要ですが、酒を飲まなくてもよい飲み会の場(すり合わせ場)みたいな構成になることがあるようです。子供やファミリーは含めないセッション性が先行している場合があります。

同時に「スペース」をつくることの必要性を強く感じます。特に子供たちは自発的に動き、自由に考える力を持っています。隙間をプレイスで埋めてそれを制限するような枠組みを設けるのではなく、むしろ自然に生まれる意欲を尊重し、社会の中でのびのびと成長できる環境を作るべきです。「デザイン」も「ナッジ」も、人間の意欲について考えたものなのでしょうか。始まりはそうであっても、設計者の意欲で他人を染めようとする方向が加速していくのが現状だと思います。

若者と子供の分断が生む影響

「若者」というムーブメントがあります。発数年前と全然違うことを言いながらも、「政治」の顔をする場合が多いと思います。

若者と子供を分離したら、子供は巻き込まれたり疎外されたりする側になるでしょう。若者の多くは親ではなさそうだし、ポジションがバッティングしています。

大抵の物事は言い換えようと思えばできるし、「政治」もたいていホンネや欲望の言い換えで「経済」の顔をできる。そうすると子供は間接的な存在になってしまいます。マーケットに本格的にデビューしていないからです。

この社会は経済という欲望でできているので、子供は保護はされても意見的な立場があまりありません。子供がやりたいことリストを作っても、たいていお金を動かす権利がないでしょう。そしてそれを作ったとして、僕といちご摘みの約束を叶えたいとか、そんな発想になるでしょう。

繋がりが薄れた時代は他者がなにをしているかわかりにくくなり、気づきにくい図々しさが格段に増えたと感じます。それが強まると世の中の流れが変わる。謙虚とか純情などは脱落しやすい心の弱さになってしまいました。目に見えない余計なお世話に、批判をできる人はあまりいないように見えます。「わたしの夢」といって濁せたら、気付かれないと思います。

こういった大人のテクニックに対して、「大した努力もしないで手に入れるための見せ方」と、ある学生はいっていました。僕はそれをもっともだと感じました。僕も子供も、社会からしたら練なじみきれていない存在。だから外から眺められる同士、本音と建前が見えるのでしょう。

裏はこんな感じでしょうか。「ナルシシズムやニヒリズムとの対決を逃げて何が悪い、文句言うやつが社会人として欠けている」と排除するのが、今の社会人なのでしょう。


アイスランドの教育から学ぶこと

教育のあり方についても考えさせられることがあります。例えば、アイスランドのインクルーシブ教育。

小学校の授業を見学しました。編み物をしながらテレビドラマを見るといった実生活に即した授業が行われており、運動系と認知系の能力を同時に鍛える取り組みがなされています。口では、実際の生活ではテレビ見ながら編み物とかするでしょ?といっていました。

アイスランドの教育現場をみて、高効率やジャンル絞り込みを重視するやり方に、能力を封じるような決定的な失敗があると思いました。社会的なスペック人格を獲得せよとか、適性と望みの合流という手法では、複数身につけられる「私」を抑えて一つを選択するようです。

しかしそれは間違っている。努力できるものは人生にたったひとつではないからです。現状の自助論では人間が本来持つ多様な能力を不必要に制限しているように思えます。

情熱を尊重する社会

アイスランドの人たちは一人で何人かの人生を送っていました。人間いきものは、一つに絞られた力を持たなければならないと設定されているわけではありません。いくつも燃えられるものがあっても珍しくはない。一つのベストな選択肢を追い求めるのではなく、人は複数の情熱や努力の対象を持てる存在であるはずです。

アメリカの宗教観を自己啓発やビジネス論に変え、それが日本に浸透したのがグローバル期といえます。宗教道徳観念の強いアメリカの民主党が弱まって見えるのは、人間性の反動が起きているからではと考えています。


空間的な体験と希望

最終的には、一人でも多くの人が情報ではなく空間的な体験を通じて、努力を「楽しむ」ことができる社会を目指すべきではないでしょうか。それは、人間が本来持つ力を解き放ち、それぞれの個性を尊重する素直な社会の姿だと思います。

僕が子供たちの熱意や純粋さを見て感じるのは、そうした社会が未来への希望につながるということです。大人がその可能性を狭めないような選択をしなければならない、と強く思います。

近代の枠を超えて

もう僕らは、近代までと違う状態でスタートしてもいいよと言われています。なのにまだ近代観念から離れまいとしています。生まれてきて、借りを返す人生があるといわれても、いやおかしいでしょと、素直な状態なら思えます。

「輪廻」とか「縁起」という言葉が再評価されてもいいのではないでしょうか。これは北欧神話とも、いくつかの哲学思想とも合致してくるようです。

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