【長編小説】分岐するパラノイア-weiss-【S27】
<Section27 箱>
ファダムは、クッションを自分のところに戻すよう、細い腕を伸ばし、
手に平を上に向けて差し出した。
ひとりの従者が床に転がったクッションを急いで手に取り、祭壇の前まで持っていった。
クッションは円や四角、三角などを使った幾何学模様が刺繍されていて、なんとも肌触りの良さそうな生地だった。
「さて、ミハイルさん。三神の異変についてですが。」
そうなのだ。僕は強いお酒を飲みに来たわけではないのだ。
「あの、神海がないっておっしゃいましたけど。どういうことでしょう?」
我ながら酩酊した次の日とは思えないほどの既定路線への取り舵がうまくいった。これまでに飲みすぎたことは何度かあったが、その次の日は具合が悪く何も手につかなかった。
しかしあのサーカスという謎の強い酒を飲まされたにもかかわらず頭は冴えている。あのミント茶のおかげだろうか。
「このマンヘイムには【伝歌】というものがございます。この世界と国と森にまつわる未来の歌、【サキウタ】です。」
「そのサキウタと三神と神海にが関係あるんですか?」
私は勿体ぶられているようで少しイライラしていた。
ファダムは「ニーアオ、あれをここに。」と言いながら体勢を整える。
ニーアオは待ってましたと言わんばかりに、動き出しカーテンの奥へと入っていった。
「いいですか、今からお聞かせするのはこの森に伝わる大事な歌です。
しっかり聞いてください。書き留めたり、録音は禁止です。
覚えるか、忘れてしまうかはミハイルさん次第です。」
ニーアオがカーテンの奥から戻る。そのカーテンの先も気になる。
ニーアオがカーテンから出る瞬間、隙間からチラッと中が見えたが、
はっきりとは見えなかった。
ただ、ピンク色の花があったのは見えた。
小さな鉢植えに、飾られたピンク色の花。
小難しい話をしているこのファダム、いやソフィアもやはり
同年代の女の子と同じように花をみて当たり前に美しいと感じるのだろうか。
ニーアオは古めかしい箱をファダムの前に差し出す。
その箱はなにかの模様が刻まれている。
だいぶ古いもののようで、箱は所々傷がついていたり
欠けている部分もある。
色もおそらく当初の色ではないだろう。
くすんだり、変色したり、はたまた焼けた痕跡まである。
その古さの中に見える模様。
それは先ほどのクッションに描かれている幾何学模様とは違い、
理路整然と並べられた直線、まるであみだくじのような直線である。
クッションの柄は芸術的というか、民族的というかそういったものに近いが、この箱の薄汚れた模様はクッションのそれとは様子が違う。
明らかにもともとからこの森にあったものではないことがわかる。
この森の文化圏ではない違う文化圏のものである。
「では聴いていただきます。これがマンヘイム伝歌【サキウタ】です。」
ファダムは白い手で箱を開ける。
僕は箱の中を少しだけ背筋を伸ばして見る。
その中には、もうひとつ小さな箱が入っていた。
いや、箱ではないかもしれない。小さな銀のプレートのようなものかもしれない。プレートにしては厚みがある。
やはり箱だろうか。
大きさは手のひらに収まるサイズである。
私がこれが何か聞くため、声を出そうと喉をぎゅっと締めたときその小さな箱から小さな音が聞こえた。
ピピピピピピ。
乾いたその音とともに、その小さな箱かプレートの一部がチカチカと点滅した。その乾いたピピピ、の音と混じって「ゔぅゔぅゔぅ・・・」という
唸り声のようなものも聞こえる。よく見るとその箱かプレートは
震えているようだ。
生きているのか?生物なのか?
ファダムはそっとその銀の箱かプレートを手に取った。
扱いからして、生物の類ではないらしい。
ファダムは手の平に乗せ、なんとその箱かプレートを“開いた”。
そう、開いたのだ。開くと音と唸り声と光は消えた。
「ミハイルさん、これを耳に。」
耳に?耳にどうしろと?まさか耳の穴に入れろと?
小さい、と表現したが耳の穴に入るほど小さくはない。
手のひらサイズ、である。
どうしていいかわからずあたふたしだした僕を見て、ファダムはニーアオに目配せをした。
ニーアオはその箱、プレート、開かれた銀の、“それ”をさっと受け取り、
私の顔の横にくっつけた。
開かれた面を顔の側にして。
開かれた部分はひんやりとしていた。
ちょうど耳が当たっている。“耳に”の意味がやっとわかった。
“耳に入れろ”ではなく“耳にあてろ”だった。
そうならそうと言って欲しい。
僕がそのプレートを自分で支えてたのを確認してニーアオはゆっくりとニーアオ自身の手を離した。
僕は気づいてはいたけど、あてがわれたことよりもその耳にあてた部分から聞こえてくる音の方に興味があった。
音が聞こえるのだ。
人の話し声のような、ボソボソと話す声。
注意して聴いているとどんどんはっきりとしてくる。
明らかにかの箱かプレートの中から人の声が聞こえる。
話し声、ではなくおそらくこれは歌っているのだ。
なにかの歌を歌っている。
鼻歌よりもはっきり、歌唱より雑に、歌っている。
その声が何を歌っているのかはっきりと聞き取れるようになるまでそんなに時間は掛からなかった。
その声は最初は小さく聞こえてたが、それはおそらく僕が耳に神経を集中させておらず、これがなにかを考えていたからで“人が歌っている”とわかった時から耳に神経を集中させたから聞こえやすくなっただけだろう。
歌は2分ぐらいで終わった。
いや3分だったかもしれない。
同じフレーズを何度も繰り返し歌っていた。
“終わった”とわかったのは、急に声が聞こえなくなり
プープーと最初のピピピとは違うけど同じような乾いた音しかならなくなったからだ。
「聴こえましたか?これが我が森に伝わる【伝歌】です。」
ファダムはじっと伺うように僕を見ている。
「これ、なんなんですかね?歌なのはわかりましたが。
誰か歌って、いやどうしてこの箱?プレートの中から人の声がするんです?」
人間とは不思議なものだ。
心は冷静でも頭はかなり混乱するようだ。
昂った気持ちではないのに、言葉が出てこないことがある。
心より、体や頭の方は処理が追いついていないのだろう。
ファダムは息を吸って喋り出した。
「この箱のようなプレートのようなものは私自ら手に入れたものです。」
そうなのか、と一瞬だけ拍子抜けした。一瞬だけである。
僕は違和感に気づく。
代々伝わるマンヘイムの【伝歌】のはずだ。
代々伝わってきたはずなのに、“私自ら手に入れた”というのはどうもおかしい。
時系列的に、昔から伝わる歌がこの最近と言ったら語弊があるかもしれないが、この幼い長が手に入れるというのはどういうことだろう。
「えっと。。この歌は代々伝わっているんですよね?」
「そうです。この森にだけ代々伝わる【サキウタ】です。」
ファダムは立って部屋の角にあるテーブルに置いてある水瓶から水を掬い、
コップに入れようとする。
従者の一人が私がやります、とは言わなかったがさっと手を出そうとしたがファダムがそれを制止した。
ファダムが持つコップにも幾何学模様が記されている。
「の、はずです。」
ファダムはため息混じりに、俯き加減で言葉を発した。
「はず?というのは?」
僕はもっと話の先へ先へと行きたかった。
「この銀の箱は、別の世界のものです。」
僕の耳の中で、暗くどんよりしたリズムと不思議な歌がこだました。
その言葉は詩的で不気味。
呪いの森の歌。
マンヘイムの森に伝わる、伝歌とよばれる古い歌、【サキウタ】。