【長編小説】分岐するパラノイア-schwartz-【C19】
<Chapter 19 或る男の逸話(一)>
昔住んでいた街はひどい臭いがする。
気に入っていた靴、あの帽子。
いつ使わなくなったのか、
ある日突然使わなくなりどこにやったのかわからない。
失くしたわけでも壊れたり捨てたりしたわけでもなく、
つい前日まで持っていたものをある日突然持たなくなった。
それをさも当たり前かのように、
何事もなかったかのように受け入れてしまっていた。
ずっとつけていた腕時計をしなくなったその日はどんな日だったのだろう。
毎日会っていた友人に会わなくなったその日はどんな日だったのだろう。
真実とは一体何だったのだろう。
私の身に何が起こっていたのだろう。
すべてはこの言葉から始まった。正確にはこの言葉から始めた。
ブランコは振り子に似ている。
似ている、というかもう大きな振り子である。
行っては戻り、戻っては行きを人を重りとして繰り返す。
まるで人生のようだ。
私はブランコに座り、“私”という“或る男”を振り返ることにした。
或る男は、中流家庭に生まれ寂しい幼少時代をこの街で過ごした。
もれなく彼もこのブランコで行ったり来たりを何度も繰り返しただろう。
ブランコから落ちたり、ブランコの座るための板が頭に当たって泣いたことも一度や二度ではない。
この街の公園は、昔はいろいろな遊具があった。
今はもうほとんどが撤去されている。
その理由の最たるものが“危険だから”だそうだ。
確かに劣化していき、安全面が損なわれることは否めないが
撤去されるまでは年に一回ぐらいは自治体が塗り替えをしたり
点検をしていたと思う。
“ペンキを塗ったから遊べません”と書いた張り紙を何度か見たことがある。
今となっては自治体や行政が遊具にかける様々な手間をかけることが面倒になってきたのかもしれない。
危険だと言われる遊具で遊び、育った或る男は成長の過程で
公園では遊ばなくなる。
彼は小学校の高学年から学習塾に通わされる。
この学習塾は彼にとってかけがえのない居場所となった。
それは彼が中学校に進学した時に彼自身がそう感じていた。
彼は中学校自体に馴染むことができなかった。
友達はおらず、毎日毎日机に突っ伏して寝たふりをしていた。
今の言葉で言えばカースト最下層のそのまた下、ランク外である。
彼は独自の理論を持っている。
それは彼が友達はいないが、虐められもしない、“いない人”として扱われたことに由来するだろう。
彼は「いじめられるのはまだいい方だ。気持ち悪がられたり、嫌がられたり、煙たがられたり、理不尽に蔑まれようともそこには“存在”がある。」
と言っている。
彼はいじめられることも、気持ち悪いと蔑まれることも、嫌がられて遠ざけられたりすることはなかった。
ただそこに“存在”を認識されていなかった。
存在すらしないものを貶めることも虐めることもできない。
彼は自分自身が何の価値もないことを悟った。
誰からも相手にされない、誰からも存在を認められることはない。
この考え方は彼の後の思想に深く根付くことになる。
とは言えそんな無価値の人間が死を選ぶことなく生きてこられた理由が
先程の学習塾である。
彼は小学校の高学年から中学に入ってもなお通い続けた。
その学習塾では他校の生徒が多く、彼の中学校での無価値な生活を知る者はおらず、おそらく気にもならなかっただろう。
彼はその学習塾で道化を演じた。
苦ではなかった。なぜならばそういう道化を演じることは家庭の中で
散々やってきたことだったからである。
ご機嫌を伺い、遠慮をし、馬鹿な子供を演じる。
そういった行為は慣れたものだった。
その道化はある程度の人気を博し、学習塾の中では居場所ができた。
彼は中学校生活の大半を机に突っ伏して過ごし、学校終わりには急いで
学習塾へ行き、道化を演じて暖かい居場所で過ごした。
だんだんと道化を演じることが自分の使命、大袈裟かもしれないが
自分の使命だと彼は思った。
彼はこの頃からすでに「芸人」という言葉に憧れや理想を描いていた。
それもあってか彼の道化具合はかなり磨かれていき、誰しもが彼の話で笑い、彼の行動で笑った。
しかしあくまでもこれは学習塾だけでの話だ。
彼は中学校を卒業した。
第一志望の高校には落ちた。
その第一志望の高校は別に行きたいと思った高校ではなかった。
そもそも行きたい高校なんてなかった。
ただ希望があったとすれば、中学校の同級生がいない学校へ行きたかった。
しかしそれは無理な話だった。
小さな街である。どこへ行っても誰かしらがいる。
選べる高校も都会のように数はなく、みながこぞって人気のある高校を選ぶ。
彼はハナから諦めていた。どうせ高校に入ったとしても今の生活が変わることはないだろうと思っていたし、残念なことに唯一の居場所であった学習塾も中学卒業とともにお役御免である。
しかし高校へ進学しないという選択肢が極悪人がすることだ、という田舎の人間の腐った価値観を刷り込まれていた彼は否応なく塵ほども魅力を感じない高校ばかりの中から、マシだと思えるところを選ばなければならなかった。
彼は選べないでいた。
その時、学習塾で同じクラスの仲が良かった男の子が同じ高校へ行こうと誘ってくれた。
まぁどこへ行っても変わりはしないし、何だったらこういう誘ってくれる
“友達”と言える人間がいるところだと中学のような惨めな生活にはならないかもしれないと思った。
しかし問題と言えば、その高校は街の中でもかなりの人気があり、中学の同級生の約三分の一がその高校を選んでいることだった。
彼は一瞬躊躇したが、他に行きたいと思えるところもなく、
唯一誘ってくれたのがあの男の子ひとりだったためその高校を
第一志望とした。
結果第一志望の高校には受からなかったが、滑り止めで受けた高校へ行くことになる。
そしてその高校で、親の威厳やら世間体を押し付けられ、
彼本人は考えてもいなかったが大学への進学を目的としたクラスへ入るための試験を受けさせられた。
その試験には合格したが、別に彼は大学なんて考えてもいなかった。
進学のためのクラスは非常に厳しく、彼は【収容所】とよんだ。
ブランコを少し本気で揺らしてみようかと思った。
子供の時のように錆びた鎖を握りしめ背筋を伸ばし、
勢いをつけて踏み出そうとした。
でも足が動かなかった。
子供の時はあれだけ高く上がっていたのに、
今となってはあの高さまで上がるのが怖い。
ブランコという振り子が高く上がるのが、怖い。
そして一気に逆方向の高さまで上がり、
勢いが増し、どんどんスピードが上がることが怖い。
私は鎖を掴んだまま、じっとしていた。
私の記憶はどこかから、ねじれてしまっている。
私は人生をこのブランコのように、じっと大きく揺れないまま
今まで過ごしてしまったのかもしれない。
だからこそ私はこのブランコを揺らしたいと思った。
私の記憶を大きく揺らそうと思った。
振り子のようにまた同じ位置に戻るかもしれない。
その時はまた大きく揺らそう。
そしてまた同じ位置に戻り、また揺らす。
それを繰り返していこう。
それを繰り返すために、私は“或る男”と向き合うのだ。