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鬱で休職した話まとめ
春に鬱の診断を受け、9ヶ月間の休職をした。今週から復職するので、ここに記録しておく。
時系列
2023年9月
第二子初期流産
2024年4月
長く続いていた気分の落ち込みに加えて、眠れないほどの頭痛や吐き気の症状が出る
2024年5月
心療内科初診にて鬱診断を受ける。休職開始
2024年6~8月
希死念慮とたたかう
2024年9月
夫婦の話し合いにて一旦解決
2024年10月
自暴自棄になり処方薬14日分OD、その後不眠症発症
2024年12月
薬の内服で不眠症も落ち着き、気分も安定したため産業医面談で復職の話になる
2024年2月
復職
2023年 9月
以前より計画していた第二子の妊活により、すぐに授かる。29歳の誕生日前夜に陽性反応が出たので印象的だったのを覚えてる。
フライング検査だったのもあり、1週間後に産婦人科初診を予約して心拍を聞けるのを楽しみに過ごす中、その前日の朝にまぁまぁの出血を確認。
調べた感じ、これは多分初期流産だなという確信があったため自分の中では覚悟が決まりつつも、安静にすることに。
トイレから戻り、リビングにいる夫に出血したことと初期流産だと思うという旨を伝えたところ、こちらを向くこともなくほぼリアクションなしの空返事が戻ってくる。
ここで大きな違和感は感じたけれど、とにかく安静にするため横になって一日過ごす。
次の日、予約していた初診へ2人で向かう。出血した旨を伝えて内診してもらったところ、「あーそうだね、もう流れちゃってるね」とのこと。
まぁそうだろうなという気持ちと、心拍を聞く前でよかったなという気持ち。冷静に医師の言葉を聞き、子宮収縮の薬を処方してもらった。待合室にいる妊婦さんたちが羨ましくなるので見ないようにした。
お昼には病院を出て、その足で出社。何事もなかった顔で仕事してたけど、今思えばなにか自己防衛のひとつとしてふわふわしたまま受け入れないようにしてた気もする。
まぁそりゃあずっと欲しかった子供がいなくなってしまったわけだからショックだけど、けど心拍聞く前だったからまだマシだったし、初期流産ってよくあることだと聞くし、自分の周りにもたくさん経験者いるし、1ヶ月目でできた子だったからまた頑張ればいいやとポジティブに考えて普段通り元気にしてた。
けどその日の夜、流産の出血が続く中で薬の副作用が出てしまう。本来子宮を収縮させる作用のものだけど、わたしは脚にも出てしまって筋肉痛のような違和感があって痛かった。ちょっと凹んだ。
それをLINEで伝えたら、「ありゃま」と返ってきた。他人事すぎると思った。
その後、家で座って大人しくしていたとき、息子が夫にジュースを持ってきてほしいとお願いしたため、「あ、わたしも欲しい」と言ったら、返事もなくため息をつきながら渡された。なんでそんな態度を取られなきゃいけないのか意味がわからなかった。これが完全にトリガーとなり、ふわふわと続けていた元気が消えて、その後なが〜く続く気分の落ち込みが始まる。
2024年 冬から春頃
夫から意味がわからない無愛想な態度を取られ続け、耐えられなかったのでこちらから歩み寄った話し合いの場を5回ほど設ける。
夫の言い分としては、自分の体調があまり良くない時に流産が起きて対応が出来なかった。出血の報告を受けた時のことも、ため息をつきながら飲み物を渡したこともほぼ記憶にない。申し訳ないことをした自覚はある。ただ、まだ自分の心身がその大きなやらかしに向き合う元気がないから凍結させてくれとのこと。
しんどいのは私なんだが???
と思いながらも、じゃあまずわたしに向き合ってもらうためにはあなたが元気になる方が最優先だねと寄り添う。
今思えばここで自分を差し置いて相手を優先したことが良くなかったなとも感じるけれど、ロジック的には間違ってないとも思う。だってまず自分が元気にならないと向き合えないって言われちゃったらさ、そうじゃん。
よく言えば優しさ、悪く言えばバカだと思う。サバイバルで最初に死ぬ人間かい。
問題を凍結する目安は年内だと最初言われていたけれど、年が明けてもなんのアクションもない。2月に彼が退職して無職になり、時間ができたと思うけれどそれでもなにもない。
彼が私に向き合ってくれるときが来るのを黙って待っていたけれど、この2回のタイミングを逃されたのは結構ダメージを食らった。
彼は、資格の勉強を頑張っていた。合格して喜んでいた。私は後回しにされたままだった。
私から話し合いの場を設けてもなにも進展しないから、話すのも意味がないと思うようになってた。
そんな中でも3歳になった息子が中心の生活だから、日々に休む余裕もなく仕事と育児と家事に追われて、気を抜いたら潰れるという自覚を持ちながらなんとか過ごしていた。
体調で言うと、ピルを飲んでるのに11月に不正出血が続いた。流産の診断された日に「1週間後にもう一度来てください」と言われてたのに行ってなかったからちゃんと病院行った。ストレスと言われた。
2024年 4月
この頃には、もうだいぶ自分がおかしくなっていた。私はフルタイムで働き、彼は無職期間を満喫していた。
それは全然いいし束の間の休暇を楽しんで欲しいと思っていたんだけど、私が残業をすると平日の夜の育児を彼にお願いすることとなり、その罪悪感が溜まって行った。
それが悪化して、平日に息子が保育園に行きたくないとイヤイヤした際には私が仕事を休んで一緒に過ごしたり、休日も平日の夜に任せてしまっている罪悪感から私が積極的にひとりで息子を連れ出して夫を休ませてあげないといけないと思うようになっていた。
これによって、無職の夫がいるにも関わらず、週5フルタイム仕事、週末も1人で子供を連れ出すアホの母親が爆誕した。心身が限界だったけど、気を張っていないとおかしくなりそうだったから休まないようにしてた。
一度見かねた夫が、息子を連れ出そうとしている私を差し置いて息子を連れ出してくれたことがあり、気が抜けて涙が止まらなくなったのも覚えてる。なんていうかそういう状態だった。
それでとうとう4月の週末、息子を一人で連れ出して遊ばせた日の夜に異常な頭痛や吐き気に襲われるようになり、体に症状が出てしまったならいよいよ病院だなと思ったので心療内科の予約を入れた。
某同僚のお姉さんには1on1でメンタル不調のことを話していたんだけど、もう会社にいながら朝から泣いてしまうような感じだったので、あのとき近くに座ってた後輩にはマジでごめんの気持ち。
会社ではヘラヘラしてるけど、帰りの電車乗って座った瞬間に気が抜けてボロボロ泣いたりもしてた。
2024年 5月
初めての心療内科。
目を見て話を聞いてくれる落ち着いた男性の医者で、9月からのことを泣きながら話した。
話し終えて、まず言われたのは「完全に鬱ですね」だった。え、そうなんだと思った。なんか意外だった。私は会社では元気にヘラヘラニコニコできてたから、鬱ってもう24時間365日気分が落ち込んでる状態だと思ってたから違うと思ってた。もっと酷い症状の人たちのことだと思ってた。
「でも私、会社では元気ですよ〜(ヘラヘラ)」と言ったら、「当たり前じゃないですか」と言われた。そうなんだ。真顔になった。
これ鬱だったんだ〜と思いながら、鬱と言ってもピンキリだよなと考えて先生に聞いてみた。
「1が軽度、10が入院レベルの重度だとして、今のわたしって何レベルですか?」
「8ですね。少なくとも5ではないでしょ」
レベル8だった。そうなんだ。いや重症じゃん。マジか。
結構そこで、張ってた気が抜けた。ちゃんと休むべきなんじゃんと思った。
けど会社に迷惑をかけたくないし、大事にもしたくなかったし楽しい場所だから、医者にも休職はしたくない旨を伝えてその日は終わった。
けど、その日からもう気を張れなくなってしまって、仕事が全く頭に入らなくなってしまった。
それで上司とも話して、次の2週間後の通院日にやっぱり休職したい旨を伝えた。この時期、短期間で同僚や上司3人から顔がやばいと言われた。
5月2日に鬱の診断を受けて、5月16日に休職を決めて、5月28日から休職を開始した。
ちなみに心療内科に行ったことも鬱の診断を受けたことも夫には言えていなかったけれど、いよいよ休職になったらバレるのも時間の問題なので、親族との旅行の際に宿で伝えた。
その旅行中もわたしはもう使い物にならず、ハワイアンズに2泊だったんだけどずっと部屋とか休憩所で横になって動けなかった。
鬱、とにかく動けなくなる。これはマジ。
休職期間に入ってから
子は保育園なので、日中は一人の時間。抗うつ剤の影響でとにかく眠くてとにかく寝てた。昼寝5~6時間と夜間8時間睡眠みたいな感じ。
ただ、とにかく自分が使い物にならなくて、育児をほぼ任せている状況に対する自己嫌悪が凄かった。存在してても意義がない、迷惑なだけだなと思うようになった。
6月にはご飯が食べられなくなって、それまで飲酒の習慣もなかったのに毎日安い酒ばかり飲んで酔っ払うようになった。なんというか、食べるエネルギーがないという感じ。
大鬱に入ってしまい、速攻メルカリでポケモンの旧作を購入。現実逃避してただポケモンのレベル上げに専念する人間と化した。
外出もできなくなってきて、生きてる価値ないけど相対的に見て死ぬ方が迷惑だから生きてるという感覚。
他人に優しく身体を触られたい欲が爆発して、合法的な方法を思いつく。中国人のおばちゃんが迎えてくれる激安マッサージ店にハマる。週に何度も通う。優しくて沼る。
体重が暴落して見たことない数値になってきたのもこの頃。
趣味で観葉植物をたくさん育てていたんだけど、完全に死の森と化したのもこの頃。
8月には、詳細は割愛するけれどちょっと行動を起こしてしまって、主治医から「死なない約束をして下さい」と言われる。その日は30歳の誕生日だった。
9月、子供を私の母に預けて夫婦2人でゆっくり夜を過ごす日を設ける。ここで腹を割って話すことができて、少し前に進めた。
と思ったのも束の間、
10月、会社のBBQに子連れで参加。夕方に子供が寝たので調子乗って本当に少しだけアルコールを飲んだら、睡眠不足と疲労の体に染み渡って帰りに貧血で立てなくなる。
その次の日も私一人で子供を美容院に連れて行って、その帰りに爆イヤイヤ発動されてめちゃくちゃ疲れる。夫からの返信が死ぬほど適当で腹が立ち、珍しくその場で怒る。
そんで次の日の朝も同じ感じが続き、疲労で自暴自棄になって処方されていた抗うつ剤2種類を14日分爆飲みして気を失うように寝続ける。薬が足りなくなったので病院に言うしかなくて、たしなめられる。(当たり前)
その次の日から不眠症が始まる。今までの人生で何度か鬱だろうなという時期はあったけれど、睡眠だけは才能があるので絶対に寝れてた。それがとにかく寝れない。経験したことのない夜中の途中覚醒が始まって困った。
それがちょうど復職を前提としたリハビリワークが始まる頃で、2週間を予定していたのに不眠症が始まったせいで結局2日で取りやめになった。迎える準備をしてくれていたのに多大な迷惑をかけた。
休職の診断書も3ヶ月分追加になり、不眠症も薬を飲めば寝られる程度ではあるので飲み続けて寝られるようになる。
まだご飯をまともに食べられない状況が続いていて、いちばん酷い時で159cm / 39.3kgまで落ちた。
そんなこんなで12月にはかなり落ち着いてきたので、産業医と主治医のOKも出たので今ある診断書の期限が来たら復職という流れに決定。
それが今。
一種の諦めもありながら、なんだかんだ夫婦仲は仲良くやれている。これは私の努力の賜物だとは自負しているけれど、彼も彼で何かしらの努力はしてくれているんだとは思う。多分。知らんけど。
自己肯定感について
夫から理不尽な扱いを受ける中で、私の頭にずっとあったのは「でも、おかしいのは私の方なのかもしれない」だった。
自己肯定感が低く、言い返したり怒るのも苦手。まず、自分が間違ってるのではないかと思ってしまう癖がある。
一方、夫は自己肯定感が非常に高く堂々としており、それはとても尊敬している部分の一つでもある。育った環境も整っており、義父母も人間性が優れている。
以前「今まで行って感動した場所」という話題を振られ、咄嗟に出たのは「夫の実家」だった。そんな彼の言動は正しいんだと思ってついてきた。
「今回のトラブルで色々わけのわからないことをされてきたけど、結局多分間違ってるのは自分思ってる節があるんですよね」と主治医に話したところ、目を見て「その考え方、おかしいですよ」と言われて笑ってしまった。
客観的にプロが聞いて、今回の一連の騒動で正しい感覚なのは私の方だったらしい。
正直、「あ、やっぱりそう?(笑)」という感じだった。第三者、とりわけ医師にハッキリと言ってもらえたことでかなり楽になった。
やっぱり意味不明な理不尽なことをされていたんだなと、ここでようやく受け入れることができた。
一旦ケアされるべきは流産して心身が傷付いた私なのに、なんかずっと私が彼をケアする側に回ってたもん。
診察内でこれまでの家庭環境なども聞かれ、別料金のカウンセリングを勧められる。育ちの悪さは自覚していたけれど、医者に話していたら「自分の過去と一度ケリをつけた方がいい」と言われた。
私自身、確かにこの自己肯定感の低さは子供時代に成形されたものだろうなとふんわり思っていた。下を見たらキリがないけれど、私もなかなかパンチの効いた環境で育った。今となって飲み会でのエピソードトークとして使える程度には一般的ではない家庭だった。
エピソードの引き出しはいくつかあるけれど、例えば思春期真っ只中の高校三年間は母親がいつの間にか無断で連れ込んだ無職のおっさんとの同居生活だった。
彼は母親の部屋に引きこもっていて、トイレや風呂の時間だけ部屋から出てくる生活をしていたが、鉢合わせることも度々あった。
一度、私が夜のバイト帰りに帰宅して手を洗おうとしたところ、風呂場から出てきた全裸のおっさんとエンカウントした。ここは私の自宅。知らない全裸のおっさんと、エンカウント。なぜ。
死にたくなりながら自室にいたら、彼から事情を聞いたであろう母親が爆笑しながら入ってきた。この日は、家に火をつけようかと本気で考えた。
当時大学生になっていた兄は外泊の手段があったが、女子高生の私には逃げる術がなかった。当時の担任にだけ事情を話しており、授業をまともに受けられる精神状態ではない日にはよく保健室で過ごしていた。
この頃に行っていた自傷行為の痕は、今も身体に残っている。最近その横に星のタトゥーを入れて流れ星にした。そんなことでしかポジティブに変換できない。
そんなこんなで、改めて医療の場で自分の過去と向き合うのが嫌すぎて、当日も朝から貧血を起こし、カウンセリング終了後に真っ赤な血尿が出て笑う。見事だった。素直。
そこから何ヶ月か定期的にカウンセリングが続き、毎度泣きながら話をした。第三者のプロがまとめてくれた書類に「◯歳の時、◯◯から性的虐待を受けた」と書かれているのを見て、今まで直視してこなかった傷をガッツリえぐられてしんどかったりした。
私は小学校低学年の時と、中学生の時に、習い事の先生(母親の不倫相手)と実父から性的虐待を受けている。これが紛れもない事実だと突き付けられてめちゃくちゃしんどかった。今も書いててしんどい。自爆。
カウンセラーから、「ここまでの経験をされて、よく真っ直ぐな大人に育ちましたね」と言われる。私もそう思う。
あと、「あなたは育ってきた環境の中で、物事を客観視する癖がついている。辛いことも一旦なかったことにするとか、自分が我慢することで生き延びるしかなくて一種の生存戦略として身に付いてしまっている。今現在の夫婦関係もまさにそれが発動していて、1人で抱えて限界を迎えている。よくない状況。」とのお言葉もいただく。私もそう思う。
今までずっと自分の中で考えて結論を出したりモヤモヤすることはあったけれど、30歳を機にプロのカウンセラーと話す時間を設けられたことはとても意義のあることだった。
思考を整理できたし、自分自身の性質も改めて理解することができた。
終わりに
長々と書いていて、「これ客観的に見たら全然まだ復職の感じじゃないよな」とも思うけど、まぁ最近は安定してるので多分大丈夫。会社は好きなので戻った方がプラスに働く気もしている。
ちなみに色々書いたけれど、別に彼のことを悪く書きたかった意思はない。彼には彼の地獄があるんだろうし、いろんな葛藤も抱えてたかもしれないし、扱いづらい妻だと思う。
ただ私たちには小さな息子がいるから、とにかく守って育てていく義務がある。そこの合意はあるから、それなりにお互いを許しながらやっていくしかない。
私も強くならなきゃいけないし、けど我慢しすぎるのも良くない、自分が損をしすぎないバランスを模索していかないといけない。
強い母でいつつ、他人に甘えるところは甘えつつ、自分が育った環境の中で最も反面教師としている“平和な家庭”を保つ手段を選びながら目的を達成していきたい。
ここ一年ちょいで抜け毛が凄まじかったので、最近はその生え替わりがぴょんぴょんしててすごいことになっている。
がんばるじょ!