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村上春樹、「猫を棄てる」を読んで

この本は、「ノンフィクション」で、村上春樹が父親のことを語っている本だ。村上春樹とノンフィクション、というと思い出すフレーズがある。

ノン・フィクションというのは原理的に現実をフィクショナイズすることであり、フィクションというのは虚構を現実化することなのだ。

これは村上春樹の「村上朝日堂 はいほー!」の中に書いてある文章。

ノンフィクションは、現実をフィクショナイズすること。

いろいろな解釈が出来そうだが、私は「ノンフィクションと言っても、事実の全てを描けるわけではない、どこかに必ず取捨選択がある」という意味なのではないかと思う。

例えば、「耳をすませば」のロケ地巡礼で、聖蹟桜ヶ丘へ行ったとする。
大きな川に架かる橋、という光景を写真に撮ろうとしたとする。その川の周りにたくさんのビル群があったり、川の近くにゴミ溜めのような場所があったりしたら、私たちはどうするだろうか。なるべくその部分が入らないようにカメラを構えると思う。汚さの映らない、綺麗な写真を残すために。
その写真は、紛れも無い「ノン・フィクション」だ。でも、取捨選択が行われている。大前提として嘘は描かないのがノンフィクションだけれど、事実の全てを、一つも取り落とすことなく全て掬い上げるのは不可能で、必ず、好むと好まざるとに関わらず、多層的な事実の中から取捨選択をすることになる。それが、「ノン・フィクションというのは原理的に現実をフィクショナイズすること」の意味ではないかと思う。それをわかった上でどの情報を選ぶのか、を吟味するのがノンフィクションの作り方なのではないか。

長くなってしまったが、今回書かれた「猫を棄てる」はノンフィクションで、つまり、「フィクショナイズされた現実」なのだ。村上春樹が自分の父親のことを語る時、どういった事実を選択して書いたのだろうか。大きく4つに分けて内容の流れを書いてみた。

①「父と一緒に猫を棄てに行ったこと」「父の、日々の習慣」「父の実家の寺のこと」「棄てられる、という経験について」など、村上春樹が子供だった頃の、父親の姿に関する細かいエピソードが並び、

②それから村上春樹の生まれる前のことに移っていく。「戦争のこと」だ。「父親の軍歴」や「終戦までのこと」について父の俳句を引用しながら細かく書いてある。それから「戦争が父の魂に残したしこり」のこと。

③戦争から帰って来た後に村上春樹が生まれ、父親は教師になったのだという。父と疎遠になり、最後には和解のようなことをした、ということがさらりと述べられていた。父と子の葛藤の具体的な側面については、あまり語りたくない、としている。

④事実として書かれているのはここまででそれから後は、考察が続く。


個人的には最後の考察が何よりも味わい深いのだが、ひとまず父親に関するどんな事実を取捨選択したのか、について考えてみると、タイトルにもなっている、「棄てる/棄てられる」というのが大きなテーマになっているような気がした。棄てに行った猫の話を引き合いに出して、僕は親に「捨てられた」という経験はない、と村上春樹は言っている。そして、「戦争に行った」という経験もない。
戦争の後に生まれたのだからそれは当然だ。そのことは同時に、戦争を経験した後の父親しか知らない、ということでもある。一緒に猫を棄てに行ったのも、一緒に映画を見に行ったのも、全て戦争込みの父親の姿だ。

人には誰でも多かれ少なかれ、忘れることの出来ない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語り切ることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。

本書の中の言葉を引用した。

これは例えば「戦争体験」であったり、「棄てられた記憶」だったりするわけだが、人によって千差万別だ。経験していない人は、「ただ頭でこういうものだろう、と想像するしかない」と村上春樹も書いている。

でも同時に、猫を棄てに行ったときの、ちょっと不思議な経験を、父親と自分は間違いなく共有している。それは紛れもない事実だ。

つまり、「棄てられる、戦争へ行く=自分が経験していないこと」でわかり合うことは難しいとしても、小さな紛れもない、父親と過ごした時間は事実だ。そしてささやかなものごとの限りない集積が、今の自分を形づくっている。

というようなことを、考察で書いていた。
この後に、猫と松の木に関する印象的なエピソードと、ささやかで偉大なる教訓のことが書いてあるのだが、なんだか主観入りで内容を語りすぎている気がするので、もうやめておく。でも、最後のそのエピソードは本当に印象的なので、ぜひ読んでほしい。

フィクションではなくノンフィクションで書く、ということは、しがらみの中に入ることかもしれない。
フィクションの世界は閉じていて、その外側には何もないけれど、ノンフィクションの外側には、描かれなかった事実が山のようにある。あるいは、ぱっと見には見えていなかった別の側面があるかもしれない。他にも、本の中ではああ書いてあるけれど、実際にはこうだ、と言い立てる人だって現れてもおかしくない。

村上春樹の真意、みたいなものを予想する気は全くないし、ただ、私からはそういう風に見える、というだけのことでしかないが、それでもノンフィクションで語ったのは、この外側に無数の物語がある、ということが大切だったからではないか。

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高梨ぽこ
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