縄文48と練習生たち
先日お休みに、博物館へ縄文土器を見に行った。
夏にも別の縄文展を見に行っていて、その時は近隣の博物館や所蔵者からの選りすぐりを並べた展示だった。
言わばベスト版だ。
そして今回は一つの遺跡から発掘された土器や土偶を展示してある、その遺跡のすぐ隣に建てられた博物館。
これが、よかった。
接合できなかった欠片がショーケースにだーっと並んでいて、形にならない石片や土塊がたくさんあった。
その奥に大層なものが、壁際を囲うように君臨している。
そして、中でも一番形が派手で、地域性もあり珍しく、見目にも美しいものが、君臨する土器たちを代表するようにその前に展示されていて、これを水煙文土器、という。
有名なのは火焔型土器で、側面から口縁部にかけて急にぐわりと広がっており、まるで王の冠のようにギザギザと尖った印象のある文様装飾が施されている。
それがさも燃え盛る火焔なのだということで、確かに、不動明王の火炎光背のようにも見えてくる。すごい装飾の縄文土器、と聞いて真っ先に多くの人の頭に浮かんでくるものが、多分この形だと思う。
一方水煙文土器は発見された数もあまり多くなく、地域色の強
い形。
火焔型と同じように口縁部はごてっとした装飾に彩られているのだが、文様は曲線の印象が強い。
同心円状に広がる連なった渦のように見えたり、ちょっと緩やかな噴水ならばてっぺんからこんこんと吹き出す水の、上昇が落下に転じるときの曲線。
あるいは滝壺からくゆるように立ち上る、霧のようなみずけむり。
火焔型を憤怒の神になぞらえるとすれば、水煙文は水際の精霊のよう、とでも言ってみたい。
とにかくそんな土器が、センターとも言える位置に展示されているのだ。
私は感動のようなものを覚えた。いや、素直に感動した、と言ってしまおう。
いろんな出土品の中があった中の、これなのね・・・と。
夏にも同じ土器を見ているにもかかわらず、その美しさをより感じるようだった。
夏のベスト盤が「縄文48」だとすれば、こちらは舞台には立てなかった練習生たちのドラマまで垣間見るようだ。
ここは高速道路を作るための工事をする中で見つかった遺跡らしい。そのすぐ横に建てられた博物館で、庭へ出るとすぐ眼下に、今はパーキングエリアを見下ろすことが出来る。
扇状地なので背後には山を背負い、前方には現代の街並みが広がる。
この扇状地一帯に縄文時代、人は集落を作って暮らしていた。
それが今にまでつながる、という気持ちが自然と湧き上がって来た。
太古の風を、空間にも歴史にもーーー言わば縦軸にも横軸にも立体的に感じることが出来た。
はるか彼方のさらに向こうの方から送られてくるかすかなシグナルを、受け取ったような気がした昼下がりだった。
(執筆タイム33分)
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