「理由」は軽ければ軽いほどいい、と思う事がたまにある。
津島佑子の「狩りの時代」を読みながら、「血」ということについて考えた。でもこれは読書感想文ではないかもしれない。私自身のことを書きすぎていて、本の内容とはあまりにかけ離れている。
家柄としての血。国籍としての血。血を絶やさないために何かしようと思ったことは、正直ないと思う。
子供を産んだ、というのはたぶん血の保存に繋がる最もたる行動だと思うが、血の継承のことなど考えたことがない。子供を産む人生と産まない人生があるだけだという気がしている。
でも「血」のために子供を産むということは、もう30だとか、欲しいとか欲しくないとか、そういう「感情」の入り込む余地のない地平で行われる思考かもしれない。
「このアメリカでぼくたちは根無し草になるわけにはいかないんだ。最低、五人くらいは子供を作っておかなくちゃ。見てごらんよ。移民はみんな、子だくさんだよ。ぼくたちも見習わないといけない。ここは移民の国なんだからね」
上記は「狩りの時代」の一説。血のために産むというのは、例えばこういうことではないだろうか。
自分がただ生きているだけで批難されたり、不当な扱いを受けたとき、近しい人との死別など、自分を作り上げて来た要素がなんらかの理由で途絶えかけしまう危険を感じた時、こんな私でも血が発動したりするのだろうか。イマイチ実感が持てない。
同じ「血」を共有する仲間同士というのは、共通の使命を背負っているイメージがある。過去から連綿と続く因縁とか、抑圧のレキシとか。
というか、どちらかというと私は「血」というものに対して少し反発心がある気がする。「血」は自分では選べず、産まれた時から与えられている動かしがたいものだからだ。
体質、性格、遺伝、環境、などの言葉が持つイメージにも同じ類いの違和感がある。
自分の力ではなく、初めから与えられているもの、に対して、「ほんと?」と問いたくなる。
もちろん、全くないとは言わない。
そしたら環境や遺伝も全部自分の努力で乗り越えられるってことになって、鬱とか家庭環境とかも自己責任みたいになって・・・
たぶんその延長には、人に対してとても厳しくて狭い、生きづらいような気持ちにさせる思想が待っている気がして、それはきっと違う、さすがに冷たい考えだよなあと私でも思う。
多分、自分のような健康的な環境で育った人間が、曲がるわけない、と私は思っているのである。「狩りの時代」のような厳しさや、抗いがたさを見ると特にそう思う。自分は普通に決まっている、という自意識が自分の中にある。
どうしても滲み出てしまう、本物の変わり者はいるけれど、自分はそうではないので、だったら徹底してまともであるべきだと。
自分は大人しい性格だからこういうことには向いていないとか、こういう環境で育てられたからしょうがないとか、そういうことを言いたくないわけだ。でもそうすると、全てのことに対して出来ない理由を見出せなくなって、やってみないとわからないということになって、何でもやり始めることになる。広くて浅いヤツもうグッナイとなるわけである(サチモス)。
理由は軽ければ軽いほどいい、と思う事がたまにある。
理由は簡単で薄っぺらくて不純で、人から見ればどうでもよくて、でも確信的で、少し滑稽なくらいがいい。
例えばCDのジャケットから、旅行先を決めるような。
存在理由とか、長期的な目標とか、民族のルーツとか、失われた時を求めてとか、真に切実な気持ちがある時は、それに従えばいい。
でも、「真に」なんて言われてしまうと、どれもこれもとってつけたように思える。
それに比べて、テレビで見たからとか、晴れてたからとか、財布を掃除してたら見つけたからとか、そういう簡単な理由のなんと安心なことだろう。「真に」かどうか疑われる心配がない。
軽々しい理由を求めるのはたぶん、恵まれた環境を全うしてやるボケ!という謎の反骨精神と従順。
自分なんぞに重々しい理由があるわけないじゃんという卑屈と、軽々しくなりたいのにちょっと気を抜くと見せかけの重々しさに憧れてしまう愚か。
重いとか軽いとか、多分ないんだ本当は。理想の理由の形なんて考えたって、なんの意味もない。結局それは格好よさの問題であって、勘違い野郎だと思われたくない、格好悪いのが嫌だという、未発達の見栄っぱり。今日も愚かなり!