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人生初の競馬

あまりにも日常と変わらないGWの最終日、退屈から抜け出したくて、お隣の県、高知に競馬場があると知って人生初の競馬に行ってみた。

最初は馬が間近に走っているのを見たり、賭け方をインフォメーションのお姉さんに教えてもらったりして、アナウンスで流れる専門家のおすすめの馬に賭けて当たったら嬉しくなったり、と、とってもワクワクしたけれども、その興奮は、2〜3レース見ていると、だんだん違和感に変わっていった。

なんだろうか、出走前の馬とジョッキーがパドックでぐるぐる歩いてお披露目をする、その様子を、一攫千金を狙う人々が、どの馬に賭けるべきか考えを巡らしながら静かに見守っているのだが、そのじっとりとした欲望のまなざしが、どこかで感じた違和感だと気づいた。それはあるポップな有名ストリッパーのイベントに誘われて見に行った時の、静かに彼女を見つめる何人もの男たちの欲望の視線と同種類のものだった。

セックスも賭け事も、欲望を満たしてくれるものではあるし、気晴らしになるものかもしれない。

賭け事には、パチンコからオートレースまでいろいろある。でも競馬は、馬という生き物を使うところが特殊で、時にはボクサーのように減量をしてのぞむ(らしい)ジョッキーとの組み合わせで、見世物にして大金を稼ぐことのできる複雑なシステムを作り、人々の「一発当てたい」という欲望を煽るゲームだ。

馬の幸せ、というものがあるならば、それは生まれたところで、ただ草を食べて、寝て、時々走ったりして生きる、ということかもしれない。

ここ数年、ビジターでほんの趣味として乗馬をしているが、最近感じるようになった疑問は、馬は、あぶみや鞍をつけられ人に乗られて、あっちへいけ、こっちへいけ、ジャンプしろ、と手綱を引かれたり鞭で叩かれたりして、幸せなのかな?ということだ。

乗馬歴が長く、馬の習性に興味のある友人に聞くと、野生の馬は、野生の猫と同じで人間にはなつかず、本来の馬らしい生活をするが、一度人間の手にかかった馬は、人間の思惑に左右された一生を送る。子猫の時からペットとして飼育された猫が人と共存できる猫に育っていくように、馬も人間のもとで生まれてしまったら、人間とともに生きて行くしかない。その性質上、穏やかな草食動物である馬は調教がしやすく、その馬が素直な馬に育つか、性格の悪い馬になってしまうかは、多くはその馬を扱う周囲の人間で決まる。そして、人間と馬の間に、犬や猫ほどではないにせよ、馴れ合ったり愛着のような交流も生まれるらしい。

しかし、単なる愛玩用ペットとして馬を飼っている人は、圧倒的に少ない。だいたいは、競技用や競走馬や、観光用などで人間の仕事や娯楽の役に立つように調教される。

ただ、競技用よりもレース用の馬の方が極限状態を強いられている、と、友人は言う。確かにあのスピード(60〜70キロ)で1キロくらいのコースを全力疾走することは、野生馬の一生では敵に襲われた時くらいかもしれない。競馬は短距離だからまだできているのかもしれないが、それをレースのたびにやるのは馬の体と精神にとって相当な負担だろう。

最近、動物愛護が叫ばれていて、先のオリンピックで物議を醸した近代五種から馬術も消えるらしいが、そう考えると、そもそも馬というおとなしい動物を、人間は長い歴史の中で乗り物や農作の道具として飼い慣らしてきたわけだ。競馬はもちろん、乗馬だって、人間の欲望のままに馬を使って楽しんでいるのだから、犬や猫をただ愛玩動物として飼うのとは性質が違う気がする。ペットを飼うのも、もちろん人間のエゴだが、その程度が違っていて、犬や猫は強制的に働かされたりしていない。ただ人間の生活の一部になってしまっているということだ。動物の幸せを考えていくこの風潮が続けば、いつの日か、乗馬さえも禁じられる日が来るのかもしれない。

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