「自分の心を守ること」を教えてくれた人
「仕事を始めて半年も経てば、その人の『能力』が見えてくる。君が悩むことはない。」
この言葉は教育係を担当している私に、同僚が言ってくれた言葉だ。
そこそこ社会人歴も長くなり、これまで何度か教育係を拝命しているが、なかなか思うように育成することができず、毎度毎度壁にぶち当たるので、「教育係は向いていない」と諦めきっていた。
若者に伝えたい思いや経験が、伝わらない。伝えようとすると離れていく。
一言で言うなら、うっとおしい存在になるのだ。
最初は熱心に私の話を聞いていた若者も、次第に上っ面で話を聞くようになり、終いには仕事にも支障をきたすくらい、関係が悪くなってしまう。
若者が、話を聞いてくれない。指示を出しても、聞く気がないのか。報連相がいい加減になったことをきっかけに、ガラガラと崩れていく。
そんなことを繰り返してきて、「私の人間性に問題がある」と次第に自信を無くしていった。「私はダメなやつ」という刷り込みがなされていて、何をしても卑屈な考えになってしまう。褒められても素直に喜べない。
そして今回も同じく、負のループをたどりつつあった。ああ、また同じ結果なのか。どうして私は成長できないんだろうなぁ。人を育てるのは得意ではないけど、教育係を任されたからには、とことん付き合っていこう、という意気込みがあったのに。一生懸命やっていたのに…ダメ人間な私…。
どうしようもなく悩んでいた私は、同僚に相談することにした。
同僚は悩み事相談するにはちょっと…というような雰囲気がある人だったが、思い切って悩んでいることを話してみたのだった。
すると同僚は、あっさりと冒頭にある発言を言ったのだった。
私は、えっ、もう見限るってことですか。早いよ。そんなことしていいの。育てなくていいの?私達がそんなこと言っちゃっていいの?ええー?(疑惑の目)
教育係として不適応者という自覚は持っていたけど、それなりに使命感を持っていたので、同僚のあっさりドライなびっくり仰天発言に戸惑う。
この同僚の発言がしばらく心に引っかかっていたのだけど、最近になって、ようやくわかってきたのだ。
私にとっての教育係は、コーチじゃなくて応援者なんだ。
そんくらいの距離感じゃないと、私の場合、抱えきれない。(気持ちが前のめりになりすぎちゃうから)
例えば「42.195kmを2時間台で走ってね。」という仕事があるとする。
2時間台で走る努力をしなければならないのは、若者自身。もちろん生まれ持った才能もあるだろう。
結果が出せなかったとき、「私の応援が足りなかったせいで2時間台で走れなかったんだ・・・」と私が悩む必要はないんだ。
なので、接し方を変えることにした。「君はできる!」と伴走するんじゃなくて、沿道から応援する気持ちで「ガンバレ~」と旗を振るような感じ。
結果的には自分の仕事は少し増えたけど、「できないこと」に目を向けることも少なくなったし、ほどよい距離感を保てていると思う。
私は、目の前の問題と向き合うことが「正」と思って、向き合う努力を重ねてきた。向き合って、話し合って、わかってもらう。それが人を育てるのだと思っていた。でもそれは「押し付け」にすぎない。
私がやっていたことは「押し付け」だったことに気づいて、向き合う方向を少し変えたら、気持ちがとっても楽になった。
きっと同僚は、ほどほどにしろよ、ってことを教えてくれたんだなぁ。
あのまま真正面から向き合い続けていたら、私の心がポッキリ折れていたかもしれない。
「こうなってほしい!」という期待の押し付けが、相手を遠ざけ、さらに自分自身を苦しめていたことを実感した出来事だった。
おかげさまで、今は穏やかな気持ちで過ごせている。
少しずつではあるが、自信を取り戻しつつあって、前よりも生きやすくなったと感じる。
そんなこんなで12月28日は年内最後のお仕事だった。
若者からは「来年もがんばります」とメールが届いた。
ありがたい言葉をくれた同僚は帰り際「ぽよぽよさん、年末年始はゆっくり休んでね。お疲れさま」と優しく声をかけてくれた。たったそれだけの言葉だったけど、涙が込み上げてきた。
尊敬できる人がまた一人、増えた。