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カテゴリー呪縛からオリジナリティ呪縛への移行に伴い「平凡」の興隆

「自分らしさ」それは皆が幸せになるためのキーワードだと私たちは信じて疑なかった。いや今もかもしれない。

「自分らしく生きよう」この謳い文句は、常識や従来の価値観に縛られて身動き取れずに苦しんでいる人たちを開放するための魔法の言葉だった。”個性”や”多様性”といった言葉たちが、ネットやメディアで取り沙汰され、広告に起用されては、新時代の起業家やクリエイター、インフルエンサーたちがその具現化された形として機能し、私たちの心に希望をもたらした。そんな彼らに勇気をもらって行動した人たちも少なくはないだろう。

だが今はどうだ。「自分らしさ」それはただの呪縛の文言と化してきているようにみえる。ついに多様性やら個性やらが人々を息苦しくさせる段階に突入し始めてしまったと私は感じる。(まぁ良くも悪くも、それがある種人間の正常な歩みって感じが個人的にはしなくもないが)

つまるところ、役割規範によるカテゴリー呪縛(日本人なんだから女なんだから男なんだかお姉ちゃんなんだからお兄ちゃんなんだから妻なんだからetc...)から個人規範によるオリジナリティ呪縛(みんなそれぞれ自分らしく)への移行がすでに始めっているのではないか。令和はオリジナリティ呪縛、さらにはクリエイティビティ呪縛に苦しめられる時代になりつつあるのではないか。と私は考えている。

ここ最近かなりのスピードで、多方面からパーソナライズされた社会へと変わってきている。

例えば、2019年は「このチークをつければ誰でもかわいくなれますよ」「この夏はこの髪色できまり!」という従来の広報の仕方から、「乾燥肌のあなたにはこのファンデーションがおすすめ」「イエベ春のあなたにはこのリップ」といったように、自分に合ったものを消費していこうという宣伝の仕方にシフトしてきた年だった気がする。購入前に、アプリを使ってバーチャル空間で髪色や化粧品、衣服が自分に合うかどうかチェックすることのできるサービスを始める企業も後を絶たない。(まぁこう言った動きも後になっては一時的な「流行」でしかなかったという見方をされるのだろうが)

しかし、『みんな同じ』から『みんな違う』への価値観の移行それに伴う言動の変化を皆がスムーズにできるのだろうか。個の時代の到来が叫ばれ、生活のハード面ではどんどんパーソナライゼーションが進む一方、人々の心はそれに追いついてきているのか私にはいささか疑問だ。

デジタル化が急速に進んだ時代において、スマホやSNSを自由に使いこなせるデジタルネイティブ世代とそうでない人たちとの格差、デジタルデバイドが生まれたように、縛りが減って自由が増えた社会でアイデンティティをうまく自分で確立できる人間とそうでない人間の格差が進むのではないだろうか。

「みんな同じ」の空間では、モデルとなる誰かに合わせることによってある程度の幸せを獲得できた。しかし「みんな違う」空間では、自分ですべてをつかみ取って自分を一から構築せねばならず、加えて増大する承認欲求を満たしたければ、SNSで自分のオリジナリティを相手が理解できる形で示さねばならない。きっとそれができずに迷子になる人も溢れてくるに違いない。

昔なら多くの人は生まれた土地で与えられてポジションに基づく役割を担うだけで良かったのかもしれない。そこにいて与えられたものをこなせば、生きるのにつまずかないレベルのアイデンティティを確立できた。しかし、自分でつかみに行かなければいけなくなった時代では、荒れ狂う大海原に出て冒険しない奴は、ないものにされがちになるだろう。そもそも待っていれば役割を与えてくれるような人も環境もなくなるだろうが。(いや私は無駄に労力さくより、狭義での置かれた場所で咲きなさい枠で生きるのも悪くないと思うのだがanyway)

時代の流れにより役割負担によるアイデンティティ確立が半消滅すると同時に、”個性”を謳う個の主流化の波に飲み込まれそうなマジョリティに更に追い打ちをかけるように、かつて”自己”を規定するのに一役を買っていた職業ですらも機能を弱めていくかもしれない。その職業を指していた将来の夢も然りだ。

歯医者さんや鉄道運転手、医者、野球選手など、名前がついていて、その職業になるためのルートはある程度既に確立されていて、且つ、その職業名を挙げれば基本誰でも想像できるものが今までだと多かった。しかし今後は、今まだ名前のついてない職業が増えてきて、それらを指す言葉ができたとしても、クリエイターだとかフリーランスだとかあまり制約のない職業名しかつかず、結局名前を聞いただけじゃその人が何をしているのかわからない、その職業に就くのに王道ルートさえない、そんな状況が起こってきている。また、いくら会社に属さないフリーランスとしてある程度食べていけるようになったとしても、常に新しい仕事を請け負っていかないと手を止めた瞬間に、どこにも属しておらず決まりきった固定のタスクがないのだから、仕事はその瞬間もう自分を規定してくれない。職業名だけじゃもうアイデンティティは確立できない。

夢だって、クリエイターとして、どの媒体でどんなコンテンツを制作することによって実現するのかまで具体化しないと結局どういった風に歩んでいけばいいのかわからない。今までみたいに、車の整備士の専門学校に入ってそこで教わることを着実に身に着けていけば、整備士になるという夢を実現できるみたいな、入るべきところに入ってそこでやるべきことを果たすと自然と夢に近づくみたいなルートを歩む人の割合が減ってくるに違いない。具体化に具体化を重ねれば夢を実現できるとしても、そもそもなりたいものをはっきりと描くことのできる人なんてそう多くはない。自分の将来やりたいことをろくに描けないとなると、これまた、自分は何者なのかがわからなくなるかもしれない。

やはり大多数の人は、「自分らしく生きろ」と言われても、そんなもの急にできるはずもなく、その生き方の解答例が必要になってくる。モデルが不在になって、あなたはあなたらしく生きていいよなんて言われても、自分独自の指針なんて持っていないしそんな簡単に見つけられやしない迷い人であふれかえるに違いない。

すると、”ありがたいことに”メディアが「自分らしさ」の具体例を出してくれる。

メディアは”個性”の例として、今にときめくりゅうちぇるやけみお、トランスジェンダーの人、ミックスの人、そういった世間で個性的と呼ばれているような個性爆発ボンボンぼ~んな大衆と何か違うくてもうそのスタイルを認められている人たちばかりをだしてくる。

ここまで来たらお気づきだろうか。メディアによって、自分らしさ規範が強化されてしまっている。常に個性や自分らしさの代表例として派手な見た目であったり、人と違う成功を成し遂げた人たちがあげられて、グループ分けによる”らしさ”から開放され、個人単位に目が行ったと思いきや、ひいぬけた個人に着目する世の中、すると大抵の人は何者でもない何者にもなれない自分に悩まされる。そんな個性爆発ボンボンぼ~んな社会的に認められた成功者をモデルとしてだされても彼らと自分とのギャップに苦しめられるだけである。

加えて現実はそう更に甘くはない。というのも、テレビやSNSで人気のりゅうちぇるがメイクをすることをすてきだと皆思えても、同じ学校の同じクラスの隣の席の男の子が、ある日スカートをはいてきたらクラスメイトはどんな目でみるだろうか。おっさんずらぶの中の話はコメディとして楽しめても、同じ会社の同じ部署の隣のデスクの女性と女性部長が恋愛関係にあっても、それを誰も噂することがないだろうか。

私たちはそう簡単に変わることができなければ、”違い”を許容することもできない。そこにあるものを価値づけせずには見られない。市民権を得た”差異”とそうでない”差異”。市民権を得た”違い”は個性として尊重される対象になる一方、それ以外の”違い”はただの差別対象の枠をいまだ出ることはできない。

そもそも、自分らしさが大事だよというけれどもじゃぁどうしたらいいんだよ!男らしさや女らしさ規範が批判された今の状態がだめならどうすればいいんだよ!とコンパスの針がぐるぐるに回転しまくってしまった大衆が、メディアや誰かに模範解答や解答の一例を求めて、そこにモデルの提示者がいるようじゃ、私たちはその永遠規範ループが逃れられない。これじゃぁ、従来の規範から逃れられて自由になれたかと思いきや、自分らしさ規範を押し付けられ始めただけである。

たくさんの『個性迷子者』が出てきたと思ったら、そこに重ねて『個性失敗者』がなだれ込んでくる。(失敗者という言い方が腑に落ちないし気に障るがひとまずスルーしてくださいお願いします)

例えばYoutube市場。

かつてそこは、一般人が下から這い上がっていき、無名の人間が自力で名を獲得できる場所だった。だが、最近は既に他のフィールドで有名になっている人たちが参入してきて、視聴者を集めるフェーズに入ってきた(例えば嵐やローラ等)。そうすると上から上にぼんっときた人たちによって、下の人たちは押し出されてしまい、(Youtuberの増加と比例するように視聴者数と視聴者がYoutubeに費やす時間が増えない限り)、結果としてYoutube市場での一般人が名をはせて個性のようなものを獲得するチャンスはどんどん減っていく。すると、自分らしく生きていそうな有名Youtuber見て、自分も挑戦してみたものの、うまくいかずに結局Youtubeを手段とする個性の獲得や、自分らしさを表現することはうまくいかずに終わる。

他のチャネルも同様だろう。もう席はすでに埋まっている。2019年前半はその席を自分で作り出したもん勝ちみたいなところがあったが、もう席の数が多すぎてどのチャネルも飽和しきっている。ニッチなコンテンツを輩出すれば、ある属性の一定数の票の獲得はできても、もうみんなからは無理。あらゆる媒体で、チャンネル数を増やしすぎると、視聴者が割れるか、どれを見ればいいかわからない視聴者は代表格しか見ないといった現象が起きてくるだろう。ここで誰かが言うかもしれない。だからこそ、オリジナリティに富んだまだみんなが参入していないようなものを作ればいいと。ほら、またもやオリジナリティ規範が強化されてしまった。こうやって規範は内面化されていく。

個の時代の到来×SNSの台頭が、”自分らしく生きよう”脅迫メッセージを引き金として、人々に”何者かにならなきゃいけない症候群”を引き起こさせてしまった。(この話あるあるすぎて飽きてきたよね)

しかしながら、迷子人や失敗人が増加する中で、

逆にそんなわかりやすい個性を売らなくても、当たり前のことを当たり前にできる人がすごい、その人たちを見逃してはいけないといったような警笛鳴らす人が増えてきた。(フリーランスに憧れるのはいいけど会社員をバカにするな発言とか)

つまるところ、今まではひたすら皆何か人と違うことをしよう、目立つことをして自分を売り込もう勢が多いぜいでてきて、自分もあせっていたけど、よくよく考えると、何かとびぬけたその人にしかできないことをするのもすごいけど、普通に着実に生きてる人だってすばらしいじゃんと、みんながみんなそんな革新的なことできるわけじゃないんだから普通を担ってる人だって大事じゃん、といったような感じで一部の人が転換してきている。

埋もれていた「平凡であることの価値」に目を向ける人が今後は後を絶たないだろう。

メディアやSNSが提示する個性を体現して生きているモデルに、圧倒されてしまった人たちや、いろんな媒体で頑張ってみて地位を築くことによって何者かになろうとしたものの、なれなかった人たちが集まって「やっぱ平凡がいいよねー」みたいな時代の流れすぐ来るはずだ。

少し長くなってしまったが、本稿で私が言いたかったことをまとめると以下の通りである。

個の時代の到来によって、「自分らしく生きよう」というメッセージが強く叫ばれるも、『適したモデルの不在により、自分は何者なのかわからず、自分らしく生きるとはどう生きればいいのか<迷子になる人>』、『飽和市場ではみでてしまった<うまくいかなかった人>』が合わさって、何かにつけては”個性”を出してくるオリジナリティ規範から逃れるために、【平凡】という価値が(再)興隆するのではないか

と私は今後の動きを予測しています。

つたない文章にもかかわらず、長々と読んでいただきありがとうございました。

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ぽよ
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