写真から愛を貰う
私を撮ってくれた写真について、思うこと。
写真が1番、対象への愛を愚直に表す媒体だと、
愛された人から撮られた写真を見て、改めて思いなおす。
私写真はカメラマンの目線でしか撮れない(撮れなかった)スナップだ。他の誰にもその場所は与えられなかったのだ。
※私写真とは、以下引用
いつも自分は撮る側であるから、自分が撮られた写真を見るのは少しばかり恥ずかしい。だけれど同時に温度が愛おしい。
私は他人を好きになることはできるけれども、
愛されていることには、相手からの解りやすい行動がない限り気づくのが遅い。とても苦手だ。
言葉など伝達のための記号に過ぎないと思ったから。
触れる温度でしか熱が分からない。
だけれども、私は言葉に期待している面もあって、
その不確かなものに縋りたい時がある。
しかし、写真は言葉では無い。
実際に現在であった、過去だ。
“現在であったもの”が写っているのだ。
それは何より尊いものを写した時にこそ価値ある
ときめきの思い出へと昇華されるのであろう。
その華が開く時にこそ私は死ぬことができる。
現像をした後、写真の中の笑っている友達を見て泣きそうになることがよくある。
そこでようやく確認できる。
ああ、
この時私は確かにこの人の事を愛していたのだと。目の前の写真が訴えているから。
そうなんだと思って独りでに涙がでる。
私は愛されたことがなかった。と思っていた。
だが本当はそれは彼氏、家族だけでなく友人や知人、隣人を含め、その一時の愛は私の気づけなかったところで存在していたのかもしれないと、最近になってやっと思うようになった。
大人の、他人への「死なないで」は簡単に言えるものでは無いから。
撮られた写真の中の私の笑顔が柔らかかった。
きれいだと感じた。
本当の私は自分の顔が好きでは無いから、私が写るのもそんなに得意じゃない。
でも、確かに綺麗なのだ。そこには撮ってくれた人の誰にも変え難い私への想いがあるから。だと思う。
撮られた写真は私じゃないみたいにというわけではなく、それは確かに私なのだけれど見透かされたような愛がある。
私を見つめて撮った目線がある。
それが嬉しくてたまらない。
何度も消えたいと願った私が、
私が存在している事実を見て嬉しく思うのは、
なんだかちぐはぐだけれど。
自分が笑っているフィルム写真を見ていると、
確かに、静かに花が開く鮮やかさを想うのだ。