25.着崩して宗教
今回は身近なカジュアル宗教(広義)のお話。
…宗教とカジュアル?
私は神道が好きです。
まあ、自分なりの曲解や解釈をしていますが、ざっくり言うと「おてんとうさまが見てる」です。人に言われずとも人が見ていなくても、悪いと思った事はしません。おてんとうさまが見ているからです。バチも当たりたくないですから。
思えば神道は昔から私の中に浸透(!)していて気質形成に一役買っているのかなと思います。神道は明確な開祖はおらず具体的な教義もありません。ただそこに八百万の神がおわすだけです。
この「適当さ」が私は好きで気に入っています。「テキトー」ではありません、神は神なので敬う気持ちがありつつも、人は人でうまくやっていけたらいいじゃん、くらいのカジュアルな気持ちですが「疎か」ではありません。
そんなこんなで多神という基礎が私の中に育まれたわけですね。
神の中でも付喪神という教え(?)もありまして。大事に99年か100年使い続けると、物にも神が宿るというものですね。かっこよく言うと、物を大事にすることは環境配慮の観点から素晴らしいものだという事です。
もったいない精神は、SDG”sなんて目じゃない頃から日本人に根付いているものだと思います。(というか、島国という日本の地理的条件を鑑みるに今も昔も資源の絶対量が少ないのですから、そもそも大事につかわないとやってられないんじゃないかと思います。)
今回は「神」がお話にも出てきましたが、宗教においていても居なくてもいいと思っています。
アメリカの信仰宗教に「スパゲッティモンスター教」というものもありまして。この世の全てはスパゲッティモンスターが創り出したそうです。うーん、たしかに明確に否定できる証拠はありません。悪魔の証明というやつです。
それこそ日本特有の「世の中の目」「世間」を気にするのもある種宗教じみてるのかなと思います。
明らかではない何かの存在から自分を律する、その姿勢こそがもはや宗教とも言えるのではないかと。
ここに良し悪しはありませんし、押し付けもありません。
宗教といっても必ずしも重いものではない世の中の方がもっと楽しいのではないかなと自分では思うのです。
…この姿勢も宗教として広めていくのはどうでしょう?