せめて・・・ この子には " 未来 " を与えてあげたい。優しい誰かに・・・ " この子 " を託したい [第2話「母性ってなに」・後編]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事 というものを当方は展開している。この作品と双璧をなすものが、同じく清原氏が記念すべきドラマ初主演を務めた、『透明なゆりかご (G-NHK・2018年) 』だろう。
それで筆者が特に感銘を受けた、第2話「母性ってなに」を、筆者が掲げる『DTDA』という手法 ( 詳しくはこちら ) や、『映像力学』的な視点 ( 詳しい理論はこちら ) を用いて、詳細に分析・考察していく。
また今作の台本シナリオ(制作台本)が掲載された、『月刊ドラマ』・2019年3月号などの内容も用い、さらに筆者の感想を交えながら、今作の深層と本質に、前編・後編の2回に渡って迫っていく・・・ というのが、この記事の趣旨である。そして今回は、その " 後編 " となる。前編をご覧になりたい方々は、こちらからどうぞ。
○セリフが少ないシーンでは・・・ 立ち姿で " その心理 " を表現する
主人公・青田アオイ (演・清原果耶氏) が愛情を注いできた、遺棄された新生児・しずかの引き取られる日が・・・とうとうやって来た。
看護師長の榊実江(演・原田美枝子氏)が対応し、アオイは少し離れて見送る。
母親である遺棄した女子高生の両親の姿はあったのだが、当の女子高生の姿はなく・・・ 養育することを未だ受け入れられないようだった。新生児・しずかは、女子高生の両親と養子縁組を組んで " 妹 " として育てるそうだ。そして新しい名前も決まった。母親である女子高生の名前から一文字とって、「ちなつ (千夏) 」と命名されたようだ。
自分が熟慮して命名した「しずか」が、" 衣替え " のようにいとも簡単に「ちなつ」へと変わっていく・・・ そのやるせない喪失感に呆然とするアオイ。
さてこのシーンも、演出陣のこだわりが詰め込まれている。筆者が唸ってしまったのは、このカットだ。
バックショットが印象的なカットだが・・・ 筆者は、そこはかとない違和感のようなものを感じる。アオイの左足の踵に注目してほしい。
アオイの足がよれて、左踵がナースサンダルから外れそうだ・・・ まるで彼女の「気が抜けてしまった」といった心情や「張りつめていた気持ちの糸が切れた」という心情が、この映像からひしひしと伝わってくるのだ。
「いやいや・・・たまたまの偶然でしょう」と仰る方々もいるかもしれないが・・・ 本番は演出家がモニターを凝視してチェックするわけだし、本番収録後には、演者もプレビューで自身の所作や演技をチェックしている。特にあの清原果耶氏だ。気づかないわけがない。
むしろ、「張りつめていた気持ちの糸が切れた」という心模様を、" 足がよれている " という体技で表現しているように思えてならないのだ。
既にお気づきの方々も多いかもしれないが、今作は、カメラドリーやカメラクレーンで " 安定した映像 " を撮影するようなカットでも、手持ちのカメラ (ステディーカム ) を用いて " あえて不安定な映像 " を収録している印象が強い。特に主人公のアオイを狙った撮影に、多く見られるだろう。
これはアオイという人物の、" 精神的な不安定感やその特殊性 " を映像として表現していることが考えられる。また、このようなアオイの精神的な歪みを表現したい場合には、『ダッチアングル・ショット』という、あえてカメラを傾けて撮影する手法を用いているところも特徴だろうか。
例えば、新生児・しずかの体重が20g減って、アオイが混乱して看護師長の榊に詰め寄るシーンで見てみよう。
新生児は生後数日間は、出生時体重から約5~10%ほど一気に減るのが普通 (生理的体重減少) であり、医学書にも載っているはずなのだが・・・ 混乱しているアオイの目には入らない。そして思わず、看護師長の榊に詰め寄ってしまう。これもアオイの " 精神的な不安定感やその特殊性 " を感じさせるシーンだろうか。
それで新生児・しずかの体重減少の責任を感じて、アオイが医学書を読み込むカットでは『ダッチアングル・ショット』を採用し、カメラを矢状面上で約25度程度傾けて撮影している。
映像撮影の基本は、当然、画面の水平・垂直をしっかりと出すことであり、それによって映像に安定感を付与できる。しかし上記のカットのように、画面を傾けた構図で撮影すると " 不安定で落ち着かない " などといった感情が視聴者に生まれてくる。これを逆手にとって、登場人物の" 不安定な心情 " や "心の歪み " といったようなことをサブリミナル的に視聴者に提示しているわけなのだ。
それで話を戻すと、新生児・しずかが引き取られるシーンでは、アオイにセリフはほとんど無く、したがって彼女の微妙な心模様は " 表情や所作、立ち姿 " などの体技で表現するしかない。それで清原氏は「張りつめていた気持ちの糸が切れた」という心模様を、" 足がよれている " という立ち姿で表現しようとしたのではなかろうか。
このバックショットが印象的なのは、そのような理由が潜んでいたからだろう。
○台本シナリオからの " 場所設定の変更" が・・・ 秀逸なシーンを作り出す
アオイにとっての " 新生児・しずか " が、女子高生の両親に抱えられエレベータで階下に降りる・・・ 思わず走って階段を下りる彼女。新生児・しずかが、玄関から見えなくなるまで・・・ アオイは見送る。その彼女の顔には一筋の涙が流れていた。
すると教育係の望月紗也子(演・水川あさみ氏)から呼び止められる。アオイは、さっと涙を拭いて振り返ると、紗也子からⅠ型糖尿病(IDDM : インスリン依存型糖尿病)を患う妊婦・菊田里佳子(演・平岩紙氏)のトイレへの誘導を依頼される。
どうも・・・ 里佳子の視力低下が著しいようだ。
さて、手洗い場でアオイが里佳子を介助するシーンは、場所の設定やステージング、構図、カメラワーク、カット割りの全てが・・・ 神懸かっているといっても過言ではない。今作の名シーンの一つに挙げられるだろう。
場所設定は女性トイレの手洗い場。通常の会話のシーンでは、登場人物を向い合せるステージングが基本となる。しかしこの場所設定であれば、" 鏡越し " でも会話シーンを成立させられる。
したがって上記のカットのように、登場人物を対面に配置せず、並列に並ばせて " 同じ方向を向かせたステージング "も可能になる。このことが、この後の " 重要なカット " で効果的に作用するわけだ。
それで台本シナリオ (『月刊ドラマ』・2019年3月号 ) を確認すると、実はこのシーンが『トイレから診察室への廊下』と設定されていた。今回のように、里佳子を車いすで誘導するとなると、会話の中でアオイも里佳子もお互いの表情を直接見ることは難しくなる。そうなってしまうと、お互いの心情に思いを馳せることが出来なくなることは当然ながら、この後の " 神懸かったカット " は成立しなくなる。
ディレクションを担当した柴田岳志氏の " ファンプレーな場所変更 " と言っても良いだろう。それでは次の章で、このシーンを細心の注意を払って見ていきたいと思う。
○アオイが感じ取った " 強烈なシンパシー " を、" たったワンカット " で完璧に表現する
里佳子はハンカチで手を拭きながら、独り言でもつぶやくように話し出す。
この瞬間に・・・ アオイは " 新生児・しずか " を思い浮かべながら、
[ 望んでなくても " 産まれてくる命 " があり、望んでいても " 諦めなければならない命 " がある ]
ということを思い知る。それで里佳子は、いつも元気いっぱいのアオイが・・・ 落ち込んでいることを、その声色で感じ取る。
里佳子の視力低下が進んでいるためか、" 聴覚で相手の心情 " を汲み取ろうとしていることが、よく分る場面だろう。図星だったが取り繕うアオイ。里佳子は『 (失敗して) 叱られたんでしょう』と勘繰られる。そこで事情を話し始める。
そして、今度はアオイの方が・・・ 独り言でもつぶやくように " その心の内 " を話し始める。
さて、このアオイのセリフでは、彼女と里佳子のカットを交互に繫いだ " 鏡越しでのカットバック法 " が用いられる。
[ 鏡に映る、この子の気持ちは・・・ " 私の気持ち " そのものだ・・・ ]
この " 鏡越しでのカットバック法 " で、里佳子の " 気づき " を映像で表現する。さらにアオイの、
という言葉に圧倒的なシンパシーを感じたのか、里佳子は思わずアオイの手をそっと握っと握る。ハッとするアオイ・・・ 自らの語ったことが、里佳子の琴線に触れたことを感じ取ったのだろうかと、その表情を窺う。
さて今作では、重要となるシーンで、 " 手 " というものが、登場人物の心模様を表現することが非常に多い。ここでは、二人の心が共鳴し・・・ どんどんシンクロしていくといったことを表現しているのだろう。だからこそ、里佳子はこのように語るのだろう。
さて、皆さん・・・ このカットにインパクトを感じませんでしたか? 筆者は初見の時、このカットを観て・・・そのインパクトに、どんどんシーンに引き込まれて行ってしまった。このカットは一見すると、カメラがイマジナリーライン(想定線)を越える、いわゆる「ドンデンが返る」という手法(詳しい解説はこちらをどうぞ) を用いているように見えるのだが・・・ " 何かそこはかとない違和感 " がある。
細心の注意を払って観ていれば分ると思うが、このシーンの前半のカットは " 鏡越し " という鏡像での正面のカットか、実像での登場人物が下手方向を向くカットで構成されていた。
特に実像のカットでは、登場人物が下手方向を向き、" 里佳子が手前側でアオイが奥側の立ち位置 " になっていることを覚えておいて頂きたい。
それで、ここまでの里佳子のカットでは、身体は正面か下手方向を向くカットしかなかったわけだ。しかし、『私も。子ども欲しいなんて、本当は一度も思ったことなかった』と語ると、いきなり里佳子(アオイも)の身体の方向が、" 突然に上手側を向いているカット " が入ってくる・・・ いわゆる「ドンデンが返る」というカット割りになっている。
そして、このような " 突然の変化 " は、視聴者にインパクトを与えて、このセリフの重要度を、さらに増幅させる効果を狙っているわけだ。
もう一度繰り返すと、ここまでの里佳子のカットでは、身体は正面か下手方向を向くカットしかなかった(上のカット)。しかし、『私も。子ども欲しいなんて、本当は一度も思ったことなかった』と語り出すと、いきなり里佳子(アオイも)の身体の方向が、" 突然に上手側を向いているカット(下のカット) " が入ってくる・・・ いわゆる「ドンデンが返る」というカット割りになっている。
下のようなカットを撮影したければ、通常はカメラをイマジナリーラインを越えさせる手法を用いる。しかしその場合であれば、その映像は " アオイが手前側に位置し、里佳子が奥側に位置する " といった、立ち位置の逆転現象が起こるはずなのだが・・・ 下のカットでは、その立ち位置の逆転現象は起こらず " 里佳子が手前側に位置し、アオイが奥側に位置する " と変わっていない。
ということは・・・ そうなのだ。実はこのカットは、カメラの位置は変えずに鏡に映り込んでいる二人を収録した、" 鏡像のカット " になっているのだ。だからこそ、里佳子とアオイの身体の向きが上手方向に変わっても、" 里佳子が手前側に位置し、アオイが奥側に位置する " ということは変化しなかった。
さらに、この " 鏡像のカット " になっていることが、もう一つの意味合いを付与することに成功している。このシーンでは、里佳子もアオイも " 独り言 " でもつぶやくよう話すことがポイントだろう。それと同時に " 鏡に映る自分自身も目に飛び込んでくる " という状況が作られている。ということは、
[ 一見、相手に語りかけているようで・・・ 実は自分自身にも語りかけている ]
といった、二人の深層心理とお互いのシンパシーの高まりを、このワンカットで表現しているのだ。
さらに上記のカットでは、語る里佳子にピントを当て、アオイはピントが外れてボケた映像になっている。しかし里佳子が、このセリフを語り出すと・・・
カメラが " プルフォーカス(FOCUS PULL) " という手法 (詳しい解説はこちら)を用いて、ゆっくりとアオイの方にピントを当てる。さらにズーミングも用いることで、
[ 菊田さんが感じていることは・・・ 私が新生児・しずかに感じたものと・・・ 同じだ ]
といった、アオイが里佳子に感じた " 強烈なシンパシー " というものを、たった " このワンカット " で完璧に表現している。もう、" 神懸かったカットとカット割り " で、完璧に構成されたシーンとしか言いようがない。
そして " 強烈なシンパシー " を感じてしまったアオイが、この後の " 里佳子の決断 " に大きく突き動かされるシーンでは、 " このワンカット " が隠し味のように効いているわけなのだ。
○彼女の中から " 嘆きや怒り " が消えていく瞬間を・・・ 『映像力学』で表現する
診察室に戻った里佳子は、医院長の由比と家族に対して、自分のエゴだと十分に分っているが・・・ このまま妊娠を継続し出産したいと宣言する。カーテンの向こうで、それを聞いているアオイ。家族も同意し、妊娠の継続が決まる。そして、里佳子の思いが溢れる。
この言葉を聞いたアオイは、
[ 望んでいても・・・ 諦めなければならない命が沢山あるんだ ]
という感情が、怒涛のように押し寄せてくる。そして、居ても立っても居られずに、とうとう " その感情 " が爆発して・・・ 思わず病院を飛び出してしまっていた。そして、あの " 我が子を遺棄した母 " である女子高校生の自宅へと疾走する。
さてこのシーンは・・・ 今作の全10話の中で、筆者が最も感銘を受けたシーンでもあり、また『映像力学』などのような演出手法においても、至高のシーンであると考えている。そして、今回の特集記事を書いているモチベーションは、「以前から、このシーンの詳細分析・考察記事を書きたかった・・・ 」という思いに支えられていると言っても、過言ではない。
それで、このシーンはセリフがほとんどないため、表情と体技、そして映像で見せ切る。そういったこともあって、特に『映像力学』の手法が効果的に投入されているシーンであるとも言える。『映像力学』について、もう一度復習したい方は、前編の「『映像力学』と『透明なゆりかご』」を参照してほしい。
それでは、詳しく見ていきたい。まずアオイが、我が子を遺棄した女子高生の自宅へと自転車で疾走する。
このように、我が子を遺棄した女子高生の自宅へと向かう経路では、基本的にアオイは上手方向を向いて " 下手方向から上手方向へ " と進んでいく。これは彼女の " 嘆きや怒り " といったネガティブな心理状況を映像で表現しているわけだ。この途中で、
と感じ始めていく。そしてアオイが " 下手側の方向を向くカット " が入った瞬間に・・・
と不意に医院長・由比の言葉が蘇ってくるのだ。『映像力学』では、登場人物が下手側の方向を向く場合には、" ポジティブな心理状況 " を表現していることになるため、今までアオイが抱いていた " 嘆きや怒り " が中和され、どんどん消えていくということを映像で表現しているわけだ。それと同時に、彼女の中で " パズルのピース " が埋まっていく。
と考えていると、再び由比の言葉が蘇ってきた。
[ 産んだ直後の疲労と苦痛に悶える中・・・ なぜ、こんなに遠くまで運んだ? 赤ちゃんが助かる場所・・・ そうか!!! 『由比産婦人科医院』に捨てる " 必然 " があったんだ・・・ ]
とようやくアオイは思い知る。それと同時に、教育係の紗也子の言葉も蘇ってきた。
そしてアオイの中の " 最後のピース " が・・・ 完全に埋まった。
さて主人公のアオイは、感受性も高く想像力が豊かで、空想や妄想癖がある人物像に設定されている。したがって、このシーンでの我が子を遺棄した女子高生の行動は、実際の真実ではない。あくまでも " アオイの想像の世界 " だ。しかし、状況証拠から鑑みれば・・・ そう考えざるを得ないということも言い表しているのだろう。
妊娠に気づいて人工妊娠中絶を受けようと、『由比産婦人科医院』の前で立ち竦む女子高生。上手方向を向いているため、当然ながらネガティブな心理状況だろう。その妊娠はどのような経緯だったのか・・・ それは描かれない。愛を伴うものなのか、もしかすると性被害によって起こったものなのか。いずれにせよ、" 予期せぬ望まない妊娠 " だったことには間違いない。
竦む女子高生は迷った挙句に、" それだけ " は・・・ どうしても " それだけ " は踏み切れなかった。
○せめて・・・ この子には " 未来 " を与えてあげたい。優しい誰かに・・・ " この子 " を託したい
女子高生の自宅の付近は、急勾配で長い坂が続き、とても自転車を漕げるものではなく・・・ アオイは自転車を押し、息を切らしながら坂を上っていく。この時に、女子高生の " たった一人での出産 " の恐怖と苦痛、そして疲労を想像して・・・ " 彼女の出産 " を追体験していくアオイ。
そして出産直後の疲労と苦痛に悶える中で、それでも必死に自転車を漕ごうとする女子高生。
特筆すべきは、『由比産婦人科医院』へと向かう経路では、基本的には女子高生は下手方向を向き、" 上手方向から下手方向へ " と進んでいくのだ。
登場人物が " 上手方向から下手方向へ " と進む場合には、" 未来へと歩みを進めている " ということを映像で表現していることになるため、
[ 無責任な私だけど・・・ せめて。せめて・・・ この子には " 未来 " を与えてあげたい ]
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