彼の言葉が " 福音 " のように・・・ 二人の未来を照らす [第14週・4部]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事。
今回も第14週・「離れられないもの」の特集記事の4部ということになる。ちなみに、第14週・3部の記事をお読みになりたい方は、このリンクからどうぞ。
それで今回は、第14週・69話のみを取り上げた記事なのだが・・・ 第9週・45話「雨のち旅立ち」と同様に、この放送回も筆者が心の底から感動して、" 『おかえりモネ』と人生哲学 " のシリーズを書き始めるキッカケになった。それもあってか、気持ちが空回りして・・・ なかなか思い通り記事にならず、かなり苦戦した。書き上げるのに・・・ 時間がかかったしまった(苦笑)。
さてこの放送回では、主人公である百音が「狂言回し(第三者の視点)的な役割」を担っており、ストーリーの中心は、内野聖陽氏と西島秀俊氏の " 2人芝居 " だけでほぼ構成されている。そのため、アバンタイトル以降の本編では、百音が一言もセリフを口にしないため、放映当時はかなり話題となった。そしてファンの間では、今現在でも語り草になっている放送回だ。
またこの69話でも、次週の第15週・「百音と未知」へと繋がるエピソードもあるのだが、実は後半戦となる " 気仙沼編への伏線 " が、至る所に隠されている。これらの要因から、この69話は通常の放送回とは一線を画す。したがって集中して、隅々まで丹念に観たい放送回とも言えるだろう。
さてこの放送回でも、『映像力学』的なギミックが散りばめられてはいるのだが、本編はほぼワンシーンで構成されているため、他の放送回と比較すると映像の動きは少ない。したがって、この放送回はどちらかといえば、登場人物のバックボーンや人物像、その心情、そしてそれぞれの関係性が非常に重要な意味合いを持ってくる。
また主人公・百音にはセリフが一言も無いため、否が応でも演じる清原氏の体技を含む " 表情の演技 " に注目せざるを得ない。したがって今回は、演者の表情や所作、シーン設定などに重点的にフォーカスを当てて、分析や考察記事を展開していきたい。
さらに、『しずかちゃんとパパ ( NHKプレミアムドラマ・2022年 ) 』とも共通したメッセージ性が感じられるため、それらの要素から鑑みた考察も行っていきたいとも考えている。
毎度のお約束だが『DTDA』という手法 ( 詳しくはこちら )を用いつつ、 そこから浮き彫りになってくる、登場人物や俳優の心情なども探って、この作品の世界観の深層に迫っていきたいと思う。
○ " 表情だけ " の演技でも・・・ 十二分に魅せる。「俳優・清原果耶」の気概
まずはストーリー展開から。
主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)の祖父・龍己(演・藤竜也氏)と父・耕治(演・内野聖陽氏)が上京していた。なんでも龍己が生産する養殖牡蠣が品評会で金賞を受賞し、そのレセプションために上京したそうで、耕治が付き添ったそうだ。
祖父・龍己は養殖牡蠣の水揚げが気になるということで、早々に故郷・亀島へと帰っていった。しかし父・耕治は東京に残り、百音の勤務する気象情報会社・『Weather Experts』の社屋へと、娘に内緒で足を運ぶことに。
父・耕治が社屋エントランスの「お天気触れ合いコーナー」を覗くと、そこには百音の上席で、気象キャスターでもある朝岡覚(演・西島秀俊氏)がいた。どうもアトラクションの「竜巻マシーン」が故障しているようで、その故障の状態を見ているようだった。すかさず耕治は朝岡に声をかけて、百音の父親であることを告げる。そして、故障した「竜巻マシーン」の撤去を手伝うことを申し出る。
『Weather Experts』の倉庫まで、故障した「竜巻マシーン」を二人で運んだ、父・耕治と朝岡。朝岡は社内の見学を提案するも、百音に内緒で社屋に来たため、丁重に断る耕治。その代りに、「竜巻マシーン」を修理したいと申し出る。
ということで父・耕治と朝岡は、倉庫で「竜巻マシーン」を修理することになる。この絶妙なタイミングで、測定機器の返却ために倉庫までやって来る百音。彼女の視線の先には、思いがけずに・・・ 父・耕治と朝岡の姿があって驚きを隠せない。
驚いた百音は思わず物陰に隠れると、そこには社長の安西和将(演・井上順)の姿もあり・・・ どうも二人の様子を見守っているようだった。
さて先ほども述べたが、この放送回はアバンタイトル以降の本編では、主人公・百音が一言も言葉を発しない。しかも本編では、回想などのインサート・カットを除くと、ほぼワンシーンで構成されるという、これまでの地上波TVドラマの中でも非常に珍しく、" 舞台演劇 " を髣髴させるようなチャレンジングな放送回だ。そういったこともあってか、百音を演じる清原氏は自ら、 “ 本番一発撮り ” を提案したらしい。監督を務めた押田友太氏は、このように語っている。
共演者たちの演技を見つつ、表情などの体技で感情を表現する、いわゆる " 受けの演技 " は、カットを細かく割られると、演者の感情の起伏のコントロールや集中力の維持が、非常に難しいと言われている。特に今回の清原氏の場合は、一言もセリフが無いため尚更だろう。そういった要因もあっての、清原氏の “ 本番一発撮り ” の志願なのだろうと思う。
そして映像を分析すると、このカットからエンディングまでが “ 本番一発撮り ” だと思われる。
ということは一言も発さず、二人の演技を見つつ表情の変化だけを、10分近くも全くカメラを止めずに撮影されたということになる。
そうなるとこの放送回では、この2つのカメラアングルでの、" 百音の表情の一発撮り " から撮影がスタートしたということになる。
ということは、この2つのカメラアングルからの10分近くの " 百音の表情の一発撮り " を先に撮影し、" この構図の映像 " は、後に撮影されたものになる。
この構図は " 百音の表情の一発撮り " とは、同時に撮影が出来ない。もし同時に撮影しようとすれば、このようなことになってしまうからだ。
ということは、" 百音の表情の一発撮り " のための、内野氏と西島氏の " 2人芝居 " は、この二人にとってみると " ランスルー的な要素 " を兼ねていたことも考えられる。
いずれにしても、清原氏が “ 本番一発撮り ” の志願したのは、彼女のこのような気概が強く影響しているのだろう。
[ セリフ以上に・・・ 表情や体技を " 言語の如く " に巧みに操って、その感情を表現する ]
この " 百音の表情の一発撮り " からは、清原氏の俳優魂のようなものが、ひしひしと伝わってくるわけだ。そのことは " 百音の表情のアップ " の演技だけではない。
表情が判別できないような、 " 見切れている " ようなカメラアングルであっても・・・ その感情を精一杯に表現する。それが「俳優・清原果耶」の真骨頂なのではなかろうか。そしてディレクションした押田監督も、このように語っている。
驚き、戸惑い、切なさ、感涙・・・ そして喜びまで。「俳優・清原果耶」は、" その表情だけ " でも、視聴者を十二分に魅了したのではなかろうか。
また内野氏と西島氏の " 2人芝居 " も凄い。さすがに本編を、“ 本番一発撮り ” では撮影されていないが、映像を分析すると " 長回し " を多用しているように感じられる。特に " レンズ・ゴースト " が発生するライティングの「9分30秒前後」からは、" 長回し " が多用されているようだ。
この " 長回し " は多用も、内野氏と西島氏の感情の起伏のコントロールや、集中力の維持を考慮しているのだろうと思う。しかし、その一方で " 長回し " は、出演俳優や技術スタッフにとっても非常に緊張感が高い撮影となる。セリフや各段取りを間違えてしまうと、最初からすべての撮影をやり直すことになるからだ。したがって、出演俳優や技術スタッフの心理的負担も非常に高くなる。
それでもなお、感情の起伏のコントロールや、集中力の維持の為に " 長回し " を多用する・・・ このことが、特に父・耕治が語る " 熱い思い " に、ここまでの臨場感や説得力を付与する結果になったのではないかと、筆者は感じているのだ。
○ " 二人にとってのゼウス " のように・・・ 彼は真理を語る
さてストーリー展開に話を戻すと、百音が倉庫にやって来た際に " 最初に目に飛び込んできた光景 " が、非常に象徴的だ。
朝岡が下手側、父・耕治が上手側の配置で・・・ しかも、父・耕治は脚立に乗っているため、朝岡よりも高い位置のカットになっている。
『映像力学』的な視点で捉えると ( 詳しい理論はこちら )、下手側の登場人物より、上手側の登場人物が " 上位 " の立場となる。さらにこのカットでは高低差も利用して、朝岡よりも父・耕治の方が上位であることを、構図で強調しているわけだ。
[ 朝岡が、長年に渡って抱えてきた葛藤の " 払拭するようなヒント " を、これから父・耕治が教えを説く ]
といったようなことを、この時点で既に映像として宣言しているのだろう。さらに言えば、百音に立ち聞きさせるような状況を作り出すことで、「狂言回し(第三者の視点)的な役割」を担わせ、父・耕治の抱く心模様と本音を「娘が副次的に知る」という構造にもなっているわけだ。
「父と娘がお互いに面と向かっては、照れくさくてなかなか話せないような内容でも・・・ 副次的な状況設定を作り出せば、 " 父の熱い想い " をストレートに娘に伝えることが出来る。そして " 父の熱い想い " を、娘も素直に受け止めることも出来るだろう」
といった制作者側の思惑が、このような " 変則的なシーン設定 " に影響を与えたことは、今更言うまでもないのかもしれない。そして、朝岡よりも父・耕治の方が上位であることを、百音にも提示することで、
[ 百音が、最近思い悩んでいたことを " 払拭するようなヒント " も、これから父・耕治が啓示する ]
というようなことも、同時に映像として表現されているのだろうと思う。いずれにしても、父・耕治の存在が " 百音と朝岡とってのゼウス " のように・・・ " その真理 " をこれから語っていくわけだ。
○「自然災害の怖さ」を体感したことが無い四人を・・・ " この空間 " に閉じ込める
父・耕治が、祖父・龍己のことや故郷・亀島のことを話す中で、『 ( 祖父・龍己は ) 海から離れられねえんだな・・・ あれは』という一言がキッカケとなり、朝岡は急に深刻なトーンで語り出す。
朝岡は東京出身だが、父親が転勤族のため、子供の頃は全国各地を転々としていた。そのために " 地元 " と呼べる場所が無いと語る。一方の耕治の方も " 故郷一筋 " というわけでもなく、大学の進学を機に仙台へと出て、そのまま仙台の地方銀行に就職することで、故郷・亀島に帰るつもりはなかったと語る。
さてこの放送回での登場人物は、父・耕治と朝岡、百音、安西社長のたった四人だ。安西社長のバックボーンが明らかになっていないが、首都圏出身者と想定し、四人の " 土地(故郷)に対する愛着 " についてまとめてみると、
○ " 土地(故郷)に対する愛着 " というものに実感を持つ
↓
百音と父・耕治
○ " 土地(故郷)に対する愛着 " というものを理屈では理解できるが、その実感は無い
↓
朝岡と安西社長
という感じになるのだろうか。そして「父・耕治×朝岡」、「百音×安西社長」という組み合わせを軸として、ストーリーを展開させていく。
さらに言えば、この四人の登場人物の" 自然災害 " というものに対する立ち位置や考え方も、この放送回では非常に重要な意味合いを持ってくる。
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