映像力学の視点から浮き彫りになる『透明なゆりかご』の "その本質" [第2話「母性ってなに」・前編]
[※期間限定公開記事]
○プロローグ(序文)
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事 というものを当方は展開している。この作品と双璧をなすものが、同じく清原氏が記念すべきドラマ初主演を務めた、『透明なゆりかご (G-NHK・2018年) 』だろう。
ストーリーとしては、清原氏の演じる准看護学科に通う高校生の青田アオイが、看護師見習いとして産婦人科医院で勤務する中で「産婦人科」というものが抱える " 光と影 " を見つめていくドラマだ。
筆者は、第1話「命のかけら」の冒頭の15分という、長い長いアバンタイトルを観ただけで・・・ 完全に心を鷲掴みされてしまった。
今作はストーリー展開と出演俳優の演技・演出は当然ながら、構図やカメラワーク、ライティング、グレーディング(映像の階調・色調の補正)、編集、MA(Multi Audio:音声編集ダビング)などの細部に至るまで創意工夫がなされており、映像作品としては珠玉なものになっている。そのため、6年が経過した今でも " 誉れ高い名作 " と言われている所以だろう。
実際に放映当時は、各賞を総なめにしていることでも、その評価の高さが分る。第73回・文化庁芸術祭(テレビ・ドラマ部門)大賞、第35回ATP賞テレビグランプリドラマ部門最優秀賞およびグランプリなどを受賞。また主演を務めた、清原氏も東京ドラマアウォード2019で主演女優賞を受賞している。
さて、この作品と同じ原作者と脚本が、新作ドラマ『お別れホスピタル(2024年2月)』を手掛け、その放映を記念して、『透明なゆりかご』が再放送されることになったわけで・・・ 当然、当方のnoteでも、この作品を取り上げないわけにはいかないでしょう!!!
それで筆者が特に感銘を受けたのが、第2話「母性ってなに」であり、今作屈指の名シーンが目白押しだ。これを筆者が掲げる『DTDA』という手法 ( 詳しくはこちら ) や、『映像力学』的な視点 ( 詳しい理論はこちら ) を用いて、そこから浮き彫りになった表現の世界観を分析・考察していく。
また今作の台本シナリオ(制作台本)が掲載された、『月刊ドラマ』・2019年3月号などの内容も用い、さらに筆者の感想を交えながら、今作の深層と本質に、前編・後編の2回に渡って迫っていく・・・ というのが、この記事の趣旨である。そして今回は、その " 前編 " となる。後編をご覧になりたい方々は、こちらからどうぞ。
○『映像力学』と『透明なゆりかご』 (『映像力学』とは一体何か? )
『映像力学』については、当方のnote・ " 『おかえりモネ』と人生哲学 " のシリーズ記事をお読みの方々は、既によくご存じだろう。しかし初めての方々もいらっしゃると思われるため、簡単に説明しておきたい。既によくご存じの方々は、この章は読み飛ばして頂きたい。
では、『映像力学』とは一体何か? 簡単に要約すると、映像作品を制作する場合には、「構図、登場人物の動く方向や配置などで登場人物の心理的、物語的な効果を引き出せる」といった理論を駆使して、制作者が表現したい世界観を描いていくというものだ。
もう少し具体的に言えば、映像作品にはあらかじめ " 物語の映像上の進行方向 " が設定されており、それを元にして、主人公と登場人物の動きや立ち位置・配置などを変化させることで、様々な状況設定や登場人物の深層心理などを映像で表現できる。
『透明なゆりかご』で例を挙げるならば、既に第1話の冒頭部分で、今作の進行方向が早々に提示されているわけだ。
主人公・青田アオイ(演・清原果耶氏)が一生懸命に自転車を漕ぎ、上手方向から下手方向へと駆け抜ける。
このことで、今作の " 未来 " が下手方向に設定され、「主人公が未来へと歩みを進めている」ということを映像で表現をしたければ、基本的には " アオイを上手方向から下手方向の動かす " といった所作や段取りになる。また同時に、「主人公はポジティブな心理状況である」ということを表現する場合でも、" アオイを上手方向から下手方向の動かす " といった所作や段取りになるわけだ。
逆に、" アオイを下手方向から上手方向の動かす " といった所作や段取りの場合には、「主人公が過去を振り返っている (自宅や故郷に帰る) 」や、「主人公はネガティブな心理状況である」といったことを、映像で表現していることになるわけなのだ。
また、主人公・アオイを第1話の冒頭部分で、"上手方向から下手方向の動かす " といったことが以下のような事柄も、同時に一気に設定されたことを意味する。
○基本的には、主人公・アオイの " 定位置は上手側 " となる
○主人公・アオイの対面となる下手側に立つ登場人物は、主人公が未来へと進もうとする場合に " 障壁 " となることが多い
○主人公・アオイが下手側に立つ場合には、その上手側に配置される登場人物が、アオイが尊敬する人物、上位の人物、力量が上の人物、精神的に強者の人物、教えを授けるような人物であることが多い
○主人公・アオイが下手方向を向く場合には、" 喜びや未来への期待、ポジティブな心理状況 " などを表現していることが多い
○逆に上手方向を向く場合には、" 嘆きや怒り、ネガティブな心理状況 " などを表現していることが多い
他にも表現しているものがあるのだが、ざっくり言えば以上のような感じだ。もう少し詳細に知りたい方々は、こちらをどうぞ。 実はこの法則性は、日本の映画や地上波ドラマ・アニメ作品で多用されている。特にNHKのドラマのほとんどが、今作と同様に " 上手方向から下手方向への進行 " を用いているわけなのだ。
以上の法則性は必ずとは言えないが、重要なシーンやシリアスなシーンでは、映像表現の手法として採用されることが多い。この法則性を踏まえた上で、この記事を読んで頂けると、セリフでは語られない主人公や登場人物の深層心理や物語の世界観が浮き彫りになり、より " その本質 " に迫れることだろう。
○第2話「母性ってなに」のあらすじ
さて第2話「母性ってなに」は、タイトル通り " 三人の女性の母性 " に焦点を当てるストーリー展開だ。今作を鑑賞し、既にストーリー展開を把握されている方々は、この章も読み飛ばして頂きたい。
ある日、主人公の青田アオイは、アルバイト先の『由比産婦人科医院』の軒先に、新生児が遺棄されているところを偶然にも発見する。
未熟児で低体温症だったが、早く発見されたことが幸いして、一命を取り留める新生児。そこで命の恩人であるアオイが、新生児の院内での仮名を「しずか (静) 」を命名し、彼女が中心となって新生児の世話をすることになる。
『由比産婦人科医院』に通院する菊田里佳子(演・平岩紙氏)は、Ⅰ型糖尿病(IDDM : インスリン依存型糖尿病)を患った妊婦だ。
里佳子は、Ⅰ型糖尿病の合併症が悪化する可能性もあって、主治医から妊娠することを止められていたが・・・ 夫が子供好きということもあり、妊娠したことを家族には隠していた。結局、彼女は妊娠の事実を家族に告げ、家族会議で人工妊娠中絶手術(アウス : Auskratzung)を実施することが決まる。
里佳子の人工妊娠中絶手術の当日となり、処置室に入った彼女だったが・・・ 気が変わって手術を拒否する彼女。
急遽、医院長の由比朋寛(演・瀬戸康史氏)を中心に、家族も含めてカウンセリングをすることに。由比は、「このまま妊娠を継続すれば腎不全や、糖尿病性網膜症が悪化して失明に至る」ということを説明し、里佳子に妊娠の中断を説得する。
しかし彼女は、「自分の人生は、Ⅰ型糖尿病を患ってからは " あきらめの人生 " だった。自分の身体は大丈夫。自己実現のために、絶対に妊娠を継続して出産する」と主張する。そこで医院長の由比は、
と、いつになく強い口調で諭す。あまりにも図星で、真っ当な指摘に・・・ 目にいっぱいの涙をためて、何も言い返せない里佳子だった。
アオイは昔から子供が苦手であり、" 自身の妊娠出産といった将来像 " にも全くイメージが湧いてこなかった。
しかし、遺棄された新生児・しずかの体重の増減に一喜一憂するようになるアオイ。彼女は、その世話にどんどんのめり込んでいき・・・ とうとう新生児・しずかの前で、自分のことを「ママ」と無意識に言ってしまう。彼女の中に " 母性 " というものが生まれた瞬間だった。
新生児・しずかの体重が沐浴が可能となる基準に達して、初めての沐浴をアオイが施すことになった。
彼女が新生児・しずかの沐浴に " 至福の瞬間 " を感じていると、アオイの教育係でもある望月紗也子(演・水川あさみ氏)から声をかけられる。
このタイミングで、新生児・しずかを遺棄した女性とその家族が、『由比産婦人科医院』を訪れた。それを知ったアオイの表情からは・・・ 笑みが消えていった。
○彼女の中に生まれた " 母性 " を断ち切って・・・ しっかりとお別れさせる
新生児・しずかを遺棄した女性と、その家族が『由比産婦人科医院』が訪れ、教育係でもある紗也子に診察室へと連れて行くように告げられたアオイ。
さて筆者が初見で疑問だったのが、「なぜ紗也子は新生児・しずかを診察室に連れて行く人物にアオイを指名したのか?」 ということだ。当然ながら紗也子は、アオイが新生児・しずかにかなり入れ込んでいることを把握している。台本シナリオのト書きにも、紗也子のこのような心理描写が書かれていたわけだ。
そして紗也子はアオイの状況を、看護師長の榊実江(演・原田美枝子氏)にも報告しているはずだ。
そうなってくると・・・新生児・しずかと遺棄した女性と家族との対面のシーンをアオイが目にすることで、相当な心理的ダメージを受けるということを、紗也子と榊が想像できないわけがない。それから鑑みれば、" 紗也子自らが診察室へと連れて行く " といった選択肢もあったはずなのにだ。
もちろんドラマなので、主人公が動かなければストーリーは動かない。したがって、「新生児・しずかと遺棄した女性とその家族との対面のシーンに、アオイも立ち会う」という " 主人公に目撃させる " といった、単純な機能を付与するための流れなのかもしれないが・・・ 筆者には、紗也子と榊には " もう一つの狙い " があるように感じられたのだ。それは何か?
[ たとえ遺棄したとしても・・・ 我が子を見れば、やはり愛情が溢れだす。そのシーンをアオイに見せることで、" 彼女の中に生まれた母性 " を断ち切り、しっかりとお別れさせる ]
といったような教育的側面の狙いがあったのではなかろうか。しかしそのことが・・・ 一旦は裏目に出てしまう。
○たとえ彼女にダメージを与えたとしても・・・ 看護師長の榊の " 教育的な戦略 "
気分が沈んだまま、新生児・しずかを診察室へと運んだアオイ。
カーテンで仕切られて、診察室の中の様子はアオイからは見えないが、カーテンの奥から遺棄した女性とその家族の会話が聞こえてきた。
我が子を遺棄した女性の『せっかく自転車こいで、わざわざこんな遠くまで捨てにきたのに・・・ 無駄になった』といった、悪態をつくような言葉を聞いて、アオイの " 嘆きと怒り " が最高潮にまで達する。
さて、このカットを『映像力学』的な視点で捉えれば、登場人物が上手方向を向く場合には、" 嘆きや怒り、ネガティブな心理状況 " などを映像で表現していることになる。したがって、アオイの " 嘆きと怒り " が、既に暴発しそうな状態であることが、映像からもひしひしと伝わってくるわけだ。
そして、彼女が " 嘆きと怒り " が抑えられずに、カーテンを開けて診察室の中に飛び込もうとした瞬間に・・・ それよりも先にカーテンが開く。そして診察室の中から看護師長の榊が出てきて、『あら、来てたの。ありがとう』と冷静に、且つ淡々とコットに入った新生児・しずかを彼女から奪っていった。
さて、この榊の冷静さと淡々さは、" アオイの嘆きや怒り " を十分理解した上での行動であることが、台本シナリオのト書きにも描写されている。
したがって、アオイに新生児・しずかを診察室に運ばせたのは、やはり看護師長の榊の " 教育的な戦略 " である可能性が高いわけだ。
○我が子を遺棄しても・・・ 彼女から " 未来への期待 " が滲み出てくるのはなぜなのか? 『映像力学』から垣間見れるもの
再びカーテンが閉められる。診察室の中の様子は分らないものの、会話を聞き続けたアオイ。
すると中からガチャーンと、コットが倒れるような音が聞こえてきて、咄嗟にカーテンを開けて診察室の中へと飛び込んだアオイ。彼女は思わず、新生児・しずかを抱きかかえて護ろうとする。我が子を遺棄した女性と目が合い、驚きの表情を浮かべるアオイ・・・ なんとその女性は、アオイと同世代の女子高生(演・蒔田彩珠氏)だった。
診察室の空気は凍り、時間が止まった。それを打ち砕くが如く、我が子を遺棄した女子高生の父親が " 娘 " の頬を叩く。
ヒートアップした診察室の空気を鎮めるように、医院長の由比はこのように語りかける。
さて筆者は初見で、医院長の由比が語った、『どうして " うちに " 捨てたの? 』という言葉が引っかかった。なぜ、" ここに " ではなく、 " うちに " なのか。これがストーリー後半のキーポイントとなるのだが・・・ 医院長の由比は、この時に既に " 何か " に気づいたようなのだ。これは後に、詳しく考察したい。
それで女子高生の父親が、新生児・しずかを「責任を持って、私たちで育てます」と宣言する。しかし・・・
狼狽し完全に拒否する女子高生。アオイの嘆きと怒りが再び最高潮に達して、女子高生を鋭い目で睨みつける。
さて、このシーンを『映像力学』の視点で見てみると、非常に興味高いことが浮き彫りになってくるのだが・・・ 皆さんはお分かりになっただろうか。そのポイントは、主人公・アオイが向いている方向とその立ち位置と、遺棄した女子高生が向いている方向とその立ち位置だ。
例えば、アオイが新生児・しずかを護ろうとして、診察室に飛び込んだシーンでは、
当然ながら " 嘆きや怒りの心情 " を表現するために、アオイは上手方向を向いている。しかし・・・
我が子を遺棄した女子高生は、なんと " 未来への期待やポジティブな心理状況 " を表現する " 下手方向を向いている " のだ。あれだけ悪態をついていたのに・・・ " 未来への期待 " を表現しているのはなぜなのか?
両者の立ち位置でも、同様の傾向が見られる。カットバック法 (詳しくはこちら) での表現手法だが、アオイは主人公の定位置ではない下手側に立ち、我が子を遺棄した女子高生の方が上手側に立っている。
ということは、
[ 我が子を遺棄した女子高生の方が・・・ 新生児・しずかを護ろうとしたアオイよりも " 心理的 " に上回っていた ]
ということになるのだ。この傾向は、この後のカットでも同様となっている。
アオイは感じたことや思ったことを、周りの状況やその空気感を読まずに、素直に口に出してしまう人物像として描かれている。したがって、我が子を遺棄した女子高生に、『だから何? 仕事で世話したぐらいで、善人ぶらないでよ! 』と悪態をつかれた時には、アオイは言い返したいことが山ほどあったはずだろう。
しかし・・・ 何も言えなかった。いや、口ごもってしまったと言った方が、むしろ正確な表現のような気がする。それはなぜなのか? やはり心理的には、我が子を遺棄した女子高生の方がアオイを圧倒的に凌駕し、" その気迫 " みたいなものに、彼女は完全に気圧されてしまったといことではなかろうか。
ではなぜ、我が子を遺棄した女子高生の方が " 未来への期待 " を抱き、アオイを心理的にも上回るのか。たとえ身勝手で、無責任な行動に走っていても・・・ 彼女は曲がりなりにも " 母親になっていた " ということが、どうやら大きく影響しているのだ。そのことは、このシーンだけでも既に垣間見れるのだが・・・ 後半のストーリー展開では、さらに " この部分 " がクローズアップされていく。
○彼女が " 多様な母性とその愛情 " を理解するためには・・・ もう少し時間が必要だった
新生児・しずかを新生児室に戻し、その寝顔をぼんやりと見つめるアオイ。そこに、教育係の紗也子がやって来る。
我が子を遺棄した女子高生に言い返したかった " 嘆きと怒りの言葉 " を・・・ 思わず紗也子にぶつけてしまうアオイ。
アオイは " この感情 " を、紗也子が共感してくれると思っているようだったが・・・ 意外な言葉が返ってくる。
紗也子は諭すように・・・ 言葉を続ける。
紗也子が " 伝えたかったこと " に、アオイは思いを巡らせるが・・・ 彼女は未だ " そのこと " を感じ取れてはいないようだった。
さて紗也子は、これまで数々の妊産婦と新生児に接し、その中で様々な親子関係も目にしてきた。そのような中で " 多様な母性とその愛情 " を目の当たりにしてきたことだろう。だからこそ・・・ 我が子を遺棄した女子高生の " 内心 " にも薄々感づいていた。このことは、医院長の由比も同様だろう。そのことは、やはり " このセリフ " に特徴づけられる。
なぜ " ここに " ではなく、 " うちに " と由比は表現したのか・・・ そう!! 『由比産婦人科医院』にあえて遺棄することが・・・ 女子高生にとっては必然だったのだ。そのことに由比と紗也子は、薄々感づいていたわけだ。
しかし、アオイが " そのこと " を感じ取り、理解するためには・・・ もう少し時間が必要だった。
さて次回は、第2話「母性ってなに」のストーリーの後半戦を取り上げた特集記事の後編となる。この後半戦は、今作屈指の名シーンが目白押しであり、とても涙なしでは観れない。この名シーンを『映像力学』の視点から、分析・考察し、その世界観の深層と本質に迫りたい。乞うご期待!!