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全歴史が私の背中を押す
成人してちょうど10年経ったが、自分が立派な大人になっただなんて一度も思えたことがない。
強いて言うなら、好きなことに好きなだけ自分のお金を使えるようになったことと、自分の車でどこにでも行けるようになったことだろうか。
でも、それは自分が想像している精神的に自立した「立派な大人」とは全然違う。
学生の頃はもっとかっこよくなっているつもりだったが、むしろあの頃の方がしっかりしていたんじゃないかと思うほどである。
そんな自分にぴったりだと思い、このエッセイを読み始めた。分かる。分かる。分かる。と、大人になれない私がうなずきながら読んでいた。
その中でも「後悔と大人」というタイトルのエッセイではいつも以上にうなずきの回数が多くなっていた。
どうして人間には「後悔」という機能が搭載されているんだろうか
時々むかしの恥ずかしいことを発作的に思い出して急に叫びたくなるときがある。学生の頃は自分だけだと思って物凄く悩んでいたが、どうやら多くの人間が同じことを経験しているらしい。
今更恥ずかしくなってもどうしようもないことなのに何故思い出してしまうのだろう。年齢を重ねればこの「後悔」というものと、もっと上手く付き合えるようになっていると思っていた。
そもそもなぜそんな機能が備わってしまったのだろう。根本的なところを恨んでしまうほどである。こんな思いをしているのは果たして人間だけなのだろうか。
このエッセイの中では、動物も後悔しているから進化できるのだろうと書かれているが、どうやら動物は過去について人間と同じようには考えていないらしい。
ちょうど同時期に読んでいた、動物学者のお二人が対談するこの本に、その話が出てくる。
鈴木「「今」「ここ」以外についても語れる能力ですよね。言語学では超越性と言われるもので、今のところ人間以外に見つかっていない力です。」
鈴木「(省略)過去や未来について語ったり空想しているという証拠は今のところないんです。」
山極「(省略)動物の脳に過去の出来事が入っていないわけではないんです。
でも、手話を覚える前は、記憶として頭の中に入っていただけなんですね。言葉がないと、ストーリーとしてまとめられないんだ。」
人間は目の前にないことについて考えることができる生き物で、それは言語があるからではないかと言われている。だから、過去からストーリー立てて物事を考えることができる。もしこれが本当で動物は過去の出来事をストーリー立てて考えられないとしたら、やっぱり人間のように後悔して叫びたくなるようなことは無いだろう。ちょっと羨ましい。そもそも恥ずかしいという感情があるのかは気になるところだが。
そんなわけで、最近は「なんで人間に後悔なんて機能あるんだよ」なんて考えていたのだが、あるアニメからその解を提示するかのような台詞が不意に出てきて興奮してしまった。
※ここからはアニメ第20話までのネタバレを含みます
このアニメは、短いスパンで主人公を次々と変えていくことで「歴史」というものを立体的に上手く表現していて本当に面白い作品だ。
そして、台詞も鋭くてかっこいい。時々出てくる名台詞が現代を風刺しているかのように感じるのも良い。
私が興奮した台詞は、異端解放戦線の組織長であるヨレンタさんが若い頃の仲間から受け継いだものを次の世代へと引き継ぐ際に伝えた台詞だ。
引き継がれる側のドゥラカは、あなたの歴史に巻き込むなと反論するが、それに対して返す台詞がかっこいい。
人は先人の発見を引き継ぐ。
だから今を生きる人には過去の全てが含まれてる。
何故人は記憶にこだわるのか。
何故人は個別の事象を時系列で捉えるのか。
何故人は歴史を見出すことを強制される認識の構造をしているのか。
私が思うにそれは、神が人に学びを与えるためだ。
つまり歴史は神の意志の元に成り立ってる。
神が与えたかどうかはその宗教によるのでここでは言及しないが、「学ぶため」である。私たちは学ぶために振り返るのである。めちゃくちゃ当たり前のことを言っているのは分かっているが、この文脈でこのタイミングで出てくるこの台詞・・・かっこよすぎる。そして、私が最近考えていたことにドンピシャ過ぎた。
更に、その神の意志とは悪を善に変えることで、人を通してそれを企てようとしていると続ける。かっこいいのでその後もそのまま引用する。
人の生まれる意味はその企てにその試行錯誤に善への鈍く果てしないにじり寄りに参加することだと思う。悪を捨て去ることなく飲み込んで直面することでより大きな善が生まれることもある。悪と善。ふたつの道があるんじゃなく、全てはひとつの線の上でつながっている。そう考えたら、かつてのうきふしさえも何も無意味なことはない。でも歴史を切り離すとそれが見えなくなって、人は死んだら終わりだと有限性の不安に怯えるようになる。歴史を確認するのは、神が導こうとする方向を確認するのに等しい。だから過去を無視すれば、道に迷う
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その後、ヨレンタさんは自分の人生を例に歴史がいかに自分にとって必要であるかを語る。これもまた良いので、ぜひアニメか漫画で確認してほしい。
「じんせーーー!!!」と空に向かって叫びたくなる。
話を戻して、人間はこの「学び」ができる副作用として「後悔」が現れてしまうのかもしれない。そう思うと、「後悔」にも愛着が湧いてくる。
一方で「後悔」は歴史を切り離している行為ともとれる。過去の失敗があるから今の自分がいるのに、その瞬間だけを見て憂いているのである。
私たちはこの「後悔」とどう向き合うべきなのか。
夫にこの話をしたところ、
「日常生活で後悔したことを思い出して落ち込むことなんて無いよ。そのときに、やらかしちゃったなあ、次は気をつけよ!って反省はするけど後から考えたりしない。そんなん無駄じゃん」
とポジティブの鬼に金棒でがつんと頭を殴られ、みごとに撃沈してしまいました。
と、まあ壮大な地動説の物語をかなりミクロな視点で解釈してしまい、書きながらこれ大丈夫だろうかと思えてきたのでこの辺で終わりにします。
それでは。