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猫を捨てる 父親について語るとき

■書籍名 猫を捨てる 父親について語るとき
■著者  村上春樹
 自分の父親がどのように生きてきて自分と関わり、そしてどんな気持ちを持って死んでいったのか。人間だったら、自分のルーツを探りたくなる欲求に駆られることは自然である。特に、戦時中を生きてきた世代が戦前、戦中、そして戦後と、時代に振り回される中で何を感じて生きてきたか。著者の父は、全くもって僕の祖父母世代にあたるが、僕自身も戦中世代の行動履歴はとても関心が高く、自分でもいずれは祖父母の歩みについて調べていきたいと思っている。
 まず、僕ら団塊ジュニアよりも少し後の世代は、というか僕だけかもしれないが、著者のような戦後世代を強く羨ましいと思っている。貧困や苛烈な受験戦争であったり、世界を見渡せば朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、冷戦と、とても穏やかな時代ではないことは承知している。激動の高度経済成長による拡大期だ。それでも、今の時代のような虚無的な空気はなかっただろうし、概して将来は「明るい未来」として描かれることに違和感を持たなかっただろうし、貧しさにしても、相対的に全ての家庭が貧しかったから貧困を受け入れることができたのだと思う。
 でも、著者が言うように「おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負っていくしかないのだろう。そしてその枠組みの中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちなの」である。僕の基本的な価値観は、生まれ育ったその時代における、その場所での、その社会制度における、その人間関係によって形成される。人の価値観は、その人の取り巻く環境からしか形成されない。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちであると受け入れるしかないのである。
 本書を読んで、著者が自分の父親を語る時の、全体を通した物静かなトーンがとても印象深い。確かに自分の父親を「語る」と言う行為に、小説としてのドラマ性や奇抜な展開などは必要ない。むしろ自分の記憶に残っている父親の姿をありのままに語ると言うことが、すでにこの世を去った家族に対する向き合い方であることはとてもよくわかる。現代社会において世に発刊されるメディア媒体は、得てして刺激が強いわけで、そのような中で本書のようなトーンに触れると、メッセージ性を持たせないという作風が、逆説的にいろいろなメッセージとして浮かび上がってくる。権威主義的パターナリズムや歴史修正主義が喧しい現在の中で、本書では「虐殺行為は残念ながらあったと率直に証言する人もいれば、そんなものはまったくなかった、ただのフィクションだと強く主張する人もいる。いずれにせよ、そのような血なまぐさい中国大陸の戦線に二十歳の父は輜重兵として送り込まれている。」と抑制的な語り方であるが固有の戦時体験を語ることで歴史修正主義を否定している。この控えめな語り口であるが故に、歴史修正主義に対する「中国へ行った親族を固有に知っている私がその証人である」という輪郭のはっきりとしたメッセージになって聞こえてくる。著者自身が、いつかは父親のことを書かなくてはいけないという自責の念にあったことはそれとして、反知性的・歴史修正主義的な政治の振る舞いに対して、ある意味自分の父親の存在を否定されているような感覚もあったのではないか。細かいことはともかくとして、日本人が中国に乗り込んで散々迷惑をかけた事実はあるわけだ。自分の父が中国に行った事実があるわけだから。
 著者が本書を描きたかったひとつとして、「戦争というものが一人の人間〜ごく当たり前の名もなき市民だ〜の生き方や精神をどれほど深く変えてしまえるかということだ」と述べている。確かにそいう側面はあるのだろう。でもそれ以上に、固有の戦時体験があったことを公に認定するとともに、父親についての足跡を捉え、父の内面に思考を巡らし文章化することで、子ども時代に一応の愛情を注がれ育ててもらったこと(贈与)への父への感謝(反対給付)としての気持ちの整理が本当の動機なのではないだろうか。それは言い換えれば、死者への弔いである。死者との対話でもある。
 僕にとって、戦時体験の話は想像を絶するものがある。僕の父方の祖母も満洲からの帰国組である。祖父が満洲鉄道の官僚であったこともあり、劣勢に関する情報入手が早かったことで大陸からの早期撤退が可能となり、なんとか帰国の途につけたと聞いている。母方の祖父にしても、日中戦争で陸軍として最前線において重傷を負うも、間一髪で命を取り止め終戦を迎えている。まさに奇跡の連続の上に僕がいる。でも僕としては逆に奇跡の延長線上にいない「僕」の存在のほうが気になることがある。満洲からの帰国ができなかったことで生まれることがなかった「僕」は一体どこで何をしているのか。父と母が出会わなかったことで生まれなかった「僕」はどこの世界で僕として存在しているのか。現在の僕が奇跡的な存在であるのであれば、逆に無数の奇跡的ではなかった「僕」が存在するはずなのに、僕はそんな「僕」を見たことも感じたこともない。とても不思議なことである。もしかしたらそんな「僕」は一人も存在することはなくて、「僕」は存在しないことを無念に思う存在ではないのかもしれない。すべての人は、この世に存在してきたと同時に、「僕」であったことを忘れて、僕になってしまうのである。その時点で「僕」の存在は、有る無しの概念を超越した「ゼロ」になるのだ。今、僕が持ち合わせている意識は、「僕」とは共有できない。でも、共有ができなくても、僕には「僕」という無数の自分があることを信じなくてはいけないと思う。そうしないと「僕」に対して申し訳ない気持ちになるからである。

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