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発想法

■書籍名 発想法   ■著者 川喜田二郎

 本書は、よく社会人の研修などで登場するKJ法という問題整理法を編み出した著書による、まさにそのKJ法を活用した創造的開発のための指南書である。本書を読む以前は、KJ法についての知識は全くなかった僕であるが、その方法論が誕生するに至った著者の背景を理解することができ、かつ、著者の研究の志に触れることができたことは、僕自身のデータに関する向き合い方の甘さに気付くきっかけにもなり有意義であった。
 著者の言葉を借りれば、「データそれ自体に語らしめつつ、いかにして啓発的にまとめたら良いか」という前提に立ち、「仮説を作ることに囚われてはいけない」のであって、「事実やその情報の語りかけに素直に耳を傾けようと」する必要があるわけである。
 文化人類学のエスノグラフィによるフィールドワークを行う著者のこの考え方は、非常に重要である。文化人類学では、他民族の理解を目的とするため、観察側となる自分自身の普段の考え方を起点にして理解するという姿勢をとることが許されない。なぜなら、観察側の自分の考え方そのものが、そもそも世界にある無数の民族の中の一つの「民族的奇習」であるのであって、観察対象の民族と何ら変わりのない一民族であるからである。そのため、細かい情報を膨大に収集し、集めた情報が生き生きと情報自ら語ることのできる環境を整え、語ってくる情報に真摯に耳を傾け、慎重に慎重を重ねて傾向を摘み取っていくという行動が要請されるのである。
 これは以前、思想家の内田樹氏が行っていたことだが、「論理は飛躍する」ということなのだと思う。「論理的」というと、一般的なイメージは理屈の積み上げによって、地続きに理論が展開されるという、誰もが同じ結論に到達できるものとされている。しかし、内田氏によると、理屈を積み上げていった先に、どう考えてもこれまでの常識では考えにくい帰結となることに到達できることが「論理的」であるとのことである。それは例えば、地動説を唱えたコペルニクスであり、資本論を展開したマルクスであり、相対性理論を唱えたアインシュタインなどの天才に見られる探究思考のことである。現実を詳らかに観察して論理的に考えると、どう考えても天が動いているとは考えにくく、地球が回っているという結論にならざるを得ない。中世ヨーロッパの常識とされていた天動説は、当時のヨーロッパにおける常識、つまりある種の「民族的奇習」であり、論理的に考えることで常識を飛び越えてしまう帰結となること、情報が語ってくる「非常識」に耐えうることができるかどうかということである。「耐えうる」と書いたのは、中世において天動説を否定することは、つまりキリスト教における神を否定することであったわけで、それは究極的には死を招くということであり、「天が動いている」という常識的な思考バイアスがかなりの比重でかかっていたことは想像に難くないからだである。
 話が長くなったが、本書の発想法はまさに「飛躍的な論理」を展開できるようにするために書かれたものである。情報それ自体が「語りかけてくる」ことを、いかにして常識的な思考の枠組みである「民族的奇習」から離れて、受け止めることができるか。この問題提起から考えると、本書のタイトルは「発想法」よりも「許容法」などというような、情報の受け止め方の作法を学ぶことを主題とした命名の方がよかったのではないかとさえ思えてくる。しかし、つまりは「発想する」ということは、既存の枠組みに囚われないで情報を受け止めるということなのである。発想であるとかクリエイティブというと、どうしても「創造」とか「生み出す」などのアウトプット主体のイメージが浮かんでくるが、極端に言えば、飛躍的な論理展開に基づくと、クリエイティブとは「受容」であるということだ。情報の受け止め方次第でクリエイティブになれるかどうか決まってくるのである。
 そのため、著者の情報の受け止め方に関する言葉遣いが、現在の市井に出回るクリエイティブに関するノウハウ本では見られない、とても肌触りの良いものとなっている。例えば、「なるべく柔らかく、もとの発言の土の香りをなるべく伝えた一行見出しがよい」であるとか、「あわてる必要はまったくない。流し目で見ていればよい。」や、「やたらに四角張った輪どりよりも、まるくしたほうがぐあいがよい。必要もないのに定規などで直線のワクを描くのは感心しない。」などと、情報に対して過度な緊張を与えないものの見方に、経験的に相当気を使っていることが伺えるのである。こうした、身体感覚に基づくコミュニケーション方法を取ることに眼目を置く姿勢はとても共感できるものがある。効率性や合理性を追求することが求められる現代社会においてが、「身体感覚」は「無駄」なものとされ、これまで僕たちは「いかにして身体が伴う無駄を省くか」ということに、集団的に教育を受け、集団的に教育を施してきてはいないだろうか。
 本書は論理的な論述展開であるのにもかかわらず、そういった経済合理性に対するある種のアンチテーゼとして浮かび上がってくるのが興味深いところである。僕自身もここで得た教訓である「論理は飛躍する」ということを念頭に、日々インプットする情報を受け入れて行かなくてはならない。おそらくこうしたインプットはとても「つらい」のだと思う。なぜなら、自分の思考の枠組みにはめないで、情報を頭の中で整理することを「留保」するからだ。脳内のデスクトップに生の情報のままとりあえず貼り付けておく、他の生の情報と関連づいて自ずと整理されるまでは、新鮮な状態のままでとりあえず保管するテクニックが必要なのである。脳内ペンディング、情報の留保、いろんな言い方ができると思うが、こうした中間体における情報の休息地を広げること、それはつまり、ゆっくりと考える時間を設けたり、肌触りのより感触の情報に触れたりすることによって、脳内オアシスを確保し、情報が主体的に語ってくることを待てるかどうかにかかっているのだと思う。
 いずれにしても、論理は飛躍するのである。発想とは受け止め方である。この辺りが本書から得られた知見として記録しておく。

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