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俳句のいさらゐ ▧⊛▧ 松尾芭蕉『奥の細道』その十八。「笈も太刀も五月にかざれ紙幟 ( かみのぼり ) 」
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとヾめて
年汁物とす。
笈 ( おい ) も太刀も五月にかざれ紙幟 ( かみのぼり )
五月朔日の事也。
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『奥の細道』文中「丸山と云に尋あたる」と書かれている大島城址 ( 伝・庄司館跡 ) の遠望
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多くの解説書では、名吟とも評されず、深く触れられてはいない俳句である。前文から俳句の意味はわかるようでありながら、先ず気にかかる言葉がある。紙幟 (かみのぼり ) とは何か。なぜそれを飾れと言うのか。
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参考になる図版がある ( 下の図 ) 。
井原西鶴の『武家伝来記』の挿絵に描かれている旗状のものが紙幟である。『武家伝来記』は、貞享四 ( 1687 ) 年の発行で、『奥の細道』の旅が、元禄二 ( 1689 ) 年だからまさに同時代で、当時の江戸の風俗がうかがい知れる。
江戸市中に住んでいた芭蕉は、この情景を目の当たりに見ていたことだろうし、人気を博した西鶴の『武家伝来記』を『奥の細道』の旅以前に読んでいた可能性もあるだろう。
この図には、鎧や太刀も添えられていて、芭蕉が「笈も太刀も」かざれと俳句に詠み望んでいるのは、こういう情景であろうと想像できる。
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江戸の浮世絵師菱川師宣の絵にも、上の挿絵に似た情景がある。
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「佐藤庄司が旧跡」とは、源義経に忠義を尽くした佐藤継信忠信兄弟が出た土地のことを言っており、佐藤継信忠信兄弟は、平家追討の旗揚げ参陣より義経に従い歴戦し、ついには継信は屋島で戦死、忠信は落ちゆく義経と別れ、都に潜伏中鎌倉幕府の追手によって襲われて死んでいる。
ただし、芭蕉の時代には忠信は吉野で討ち死にしたという伝えもあり、芭蕉はそれを信じていたのではないだろうか。そしてこの丸山の城は、兄弟の父元治が源頼朝率いる奥州征伐軍を迎え撃って落城している。
そういう事歴を踏まえて、本文中で「人の教ゆるにまかせて泪を落し」( 土地の人が語るこの城の悲話を聞いて涙を落とした ) という記述になっている。
ゆえに芭蕉のいう紙幟とは、上の図に見る当時の風習から考えれば、佐藤氏の家紋、あるいは佐藤兄弟を模した武者絵を入れた紙幟を思っているわけだ。
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だから ( 大の木曽義仲贔屓であるとともに ) 義経贔屓でもある芭蕉は、彼ら佐藤一族の顕彰のために、佐藤氏の家紋を入れた紙幟を、義経、弁慶のゆかりの道具とともに、賑やかに飾ってくれと願い、ときはちょうど五月朔日ではないか、今こそその時期であろうと歯噛みする思いなのだ。
この地には、そういう華やかな飾り物で節句を祝う風習はなかったのかもしれない。
「寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとヾめて汁物とす」とあるから、ゆかりの品として大事にされてはいるが、芭蕉の熱い思いにかざしみれば、寺宝としてしまわれているばかりでは、佐藤兄弟の顕彰として大いに物足りなく感じたのだ。
私の経験に照らし合わせてみるとこういうことか。書物を通じ知った人物で、その魅力に引き付けられ、ゆかりの地を訪ねてみると、おざなりな紹介ですまされていて、こちらが期待していた様子とは違うことにややがっかりすることがあるものだ。それに通ずる思いではないだろうか。
なお付け加えれば、拍子抜けする話になるが、曽良の随行日記にはこの寺には入らずと記録されている。どこで笈と太刀を見たのか、あるいは虚構なのか。しかしそれが、ひとつの文芸作品として、『奥の細道』が面白いのを阻害することではない。
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芭蕉は、紙幟を立てて、ゆかりの道具を飾ってほしいと望んだように、形式を整えて寿いだり、目に見えるしぐさで自分の気持ちを高揚させることを好む人ではなっただろうか。
俳句を見ているとそういう気がする。『奥の細道』から、そういう気配の俳句を拾えば次のような例がある。
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
庭掃いて出でばや寺に散る柳
物書いて扇引さく余波哉
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曽良
令和6年6月 瀬戸風 凪
setokaze nagi