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詩の編み目ほどき③ 三好達治「少年」
三好達治「少年」は、処女詩集『測量船』にある。先ずは詩の全文を下に示す。そのあとで「少年」私感を、詩句から解釈する。旧かなづかいのため、原詩どおり詰まる音 (「っ」) は、小文字の表記にしない。
❖ 少年 三好達治
夕ぐれ
とある精舎の門から
美しい少年が帰つてくる
暮れやすい一日に
てまりをなげ
空高くてまりをなげ
なほも遊びながら帰つてくる
閑静な街の
人も樹も色をしづめて
空は夢のやうに流れてゐる
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🔳 解釈
私はこの詩は、達治が、めざしていた職業軍人の道を捨てたことを、抒情的な一情景に置き換えて、象徴的に書いたと思っている。
達治は、多分に家計の事情と、また秀才であったこともあり、少年時代から士官たる軍人をめざしていた。しかし、陸運士官学校を卒業近くなった21歳で退校している。
実態は自覚の上で脱走事件を起こし、当然ながら軍人失格となり、懲罰的にやめさせられたと言っていい状況だったようだ。まっとうに修学していれば、仕官の道は開けていたのに、職業軍人になることを、それも士官学校出のエリート軍人という出世コースを、自ら放擲したように見える。
このあたりの事情は、後年になっても達治は語らなかった。達治の心境を忖度してみれば、士官学校の周囲の学友たちや、軍の実態を垣間見るうちに、愛国精神とは相容れない不純なものを感じ取り、その道に邁進することが自分にはできないと感じたためだろう。
つまり、軍人組織の中では、士官学校卒の肩書が当然効いてその秩序に組み込まれて、立身出世が目的にすり替わるような俗世的価値観に支配される人生に、嫌悪感を持ったと見ることが出来るのではないだろうか。
愛国精神の深い達治は、自分の進路変更を、挫折したとしか理解してもらえないとわかっているから、軍人精神の実態への批判めいたことは語りたくなかったのだろう。
達治の全詩業を見通すと、度がやや過ぎると思える清廉潔癖さ、そして信念を貫こうとする俗世離れした性格が見えて来る。その性格が作用して、脱走、その結果の放校につなったのだと理解できる。
では詩句から、何が背後にあるかを見てゆく。
🧵1.「精舎の門」と言い、「み寺の門」とは言わなかった。
士官学校、軍人世界を、精舎というかしこまった表現で喩え、硬質な漢
語の響きを選んだのだろう。
🧵2. 「美しい少年」と形容した。遠い日の己の姿を、この表現に仮託し
たのではないだろうか。そして、詩のこころに生きていた時代 ( 軍人に
なる ことを信じる以前 ) の日々を「美しい」と言っているように思う。
🧵3. 「帰つてくる」と言い、「やつて来る」とは言わなかった。行った
ことを知っている前提があって、「帰つてくる」は成り立つ。詩のここ
ろを封じて軍人の世界へ入り込んでいった自覚を、その言葉にこめてい
るのであろう。
そして、軍人の世界から、真に自分であるべき処へ戻ったことを暗示し
ていよう。
🧵4. 「暮れやすい一日」とは、不安な思いを表現しているだろう。きっ
ぱりと、決然と「帰つてきた」のではないのだ。
🧵5. 「空高くてまりをなげ」。達治の目が、空に向いているのを『測量
船』に収められた諸編に感じとる。
「乳母車」では、「鳥の列にも季節は空を渡るなり」
「冬の日」では、「空はさ青に小さき雲の流れたり」
「Enfance finie」では「空には階段があるね」
など。
『測量船』所収の一編「夜」にも
「蛍を放すときのやうな軽い指先の力で/それを空に還してやつた」
という詩句がある。表現された情感につながりを感じる。
「夜」では、年若い邏卒が草の間に落ちて眠っている青い星を拾う。そ
して、それを空に還す。この〈青い星〉も、軍人の道を選ぶことで封じ
て来た、達治の根にある創作者としての始原の魂、と見るべきものだろ
う。「それを空に還してやつた」とは、あるべきところへ戻るという暗
示的表現ではないか。
この「夜」は、「少年」の同工異曲のような一編である。下段の6の指
摘でも「夜」には再び触れる。
🧵6. 「空は夢のやうに流れてゐる」
上に引いた「夜」の終行と、重なり合う。こういう詩句だ。
「そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度とは地上
に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈
のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた」
この詩句は、軍人を捨てたことを、そうなるべきことだったと肯いなが
らも、軍人として歩むはずだった自分の、すでに去った立場からの視点
で見て、まだかすかな未練が熾火のようにあることを、「少年」の表現
より一歩進んで吐露したものだと読める。
振り返って「少年」の詩句を読み直せば、「精舎の門」( =士官学校 ) を
出た「美しい少年」( =本念で生きる自分 )が、てまりを投げ上げる空( =
今後の、あるべき自分の進路 ) は、つかみようのない、夢のような獏と
したものでしかないという憂愁がにじんでいるのが見えて来る。
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🔳 作品の位置
この詩を発表した時点 ( 大正15年8月 ) では、初期の詩「乳母車」(大正15年6月発表 ) で、メジャーな詩誌に取り上げられ、詩人として歩む自覚が、固まりつつあったと思われる。そういう時期に、過去を振り返り、その出発点を象徴的に書いた作品なのである。
なお最後に、この間の達治の年譜を簡単に引いておこう。
▩ 陸軍士官学校を退校処分になったのは、大正10年11月。
▩ 第三高等学(現・京都大学)校文科丙類に入学し、同級生の桑原武夫、吉村正一郎、丸山薫、貝塚茂樹、淀野隆三らとの親交による文学の始動は、大正11年4月から。
▩「少年」「夜」は、ともに大正15年8月の雑誌『青空』に初出。
▩ 処女詩集『測量船』が刊行されたのは昭和5年12月20日、達治30歳のときである。
令和5年6月 瀬戸風 凪
setokaze nagi