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三島由紀夫の文学 ━ 伊東静雄の「夏の〈美しき木蔭〉」と『天人五衰』。

三島由紀夫は、十代初めより伊東静雄に惹かれ読み込んでいた。
詩人伊東静雄への愛憎は相半ばしながら、三島の作品には伊東の感性が写し絵のように透けて見えることは、前回の「三島由紀夫の文学ー幻に立つ船」の中で触れた。
三島由紀夫の天与の文才が求める方位として、透かし彫りのあわいから金箔の下地がほのめいてかげろうような、儚く美しい伊東静雄の詩行へと導かれていったのは、両者のレトリック・文体を比べみれば頷けることだ。

表現の技巧に目を奪われがちな伊東静雄の詩ではあるが、レトリックで囲い込まず、直情をけれんみなく述べる創作姿勢による成果がいくつもある。たとえばしみじみとした名品「秋の海」( 詩集『春のいそぎ』所収 ) を例として挙げる。
三島由紀夫は、伊東静雄に惹かれながら、レトリックの希薄な詩篇の方は好んではいなったと私は思う。三島由紀夫の小説は、どこまでも理知に固められていて、どこにもその地面を割って伸びた、萎れかけの雑草が見えて来ない。
三島由紀夫は、誰もがごく普通に抱く悲喜哀楽の感情を、好ましい題材として創作することには、まったく価値を認めていない作家であっただろう。漱石、鷗外に《 高踏派 》という形容が冠されることがあるが、その形容に最もふさわしいのは、両文豪ではなく三島由紀夫である。

三島由紀夫への伊東静雄の影響は歴然としているが、しかしなお、伊東の見方、とらえ方の全容を深く受け入れていたならば、『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』など、細工の緻密な代表作の系譜とは異なる三島文学の世界があったはずなのにと思う。

話を三島の最後の作品『天人五衰』に戻し、今回は伊東静雄の詩篇とのつながりが見えることをさらに考察する。
先ず、伊東静雄の二編を以下に掲げる。引用にはナンバーを付した。

三島由紀夫筆 『豊穣の海―天人五衰』最終稿 

 引用 ①
 
 夢からさめて                                       伊東静雄

 この夜更に、わたしの眠をさましたものは何の気配か。
 硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵の丘の斜面で
 火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が
 何故とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故とも知らず?
 さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里の吾古家のことを。
 ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽 ( せんざい ) に面した座敷に坐り
 独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
 それは現( うつつ )の目でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情も
    ないその冷たさ、透明さ。
 そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた
 わが幼時の思ひ出の取縋る術もないほどに端然と……。
 あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの怪しく獣めく
 御陵の夜鳥の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ
 わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。

 かしこに母は坐したまふ
 紺碧の空の下
 春のキラめく雪渓に
 枯枝を張りし一本 ( ひともと ) の
 木高き梢
 あゝその上にぞ
 わが母の坐し給ふ見ゆ

伊東静雄 詩集『夏花』より

 引用 ②
 
 八月の石にすがりて                伊東静雄

 八月の石にすがりて
 さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
 わが運命を知りしのち、
 たれかよくこの烈しき
 夏の陽光のなかに生きむ。

 運命? さなり、
 あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
 白き外部世界なり。

 見よや、太陽はかしこに
 わづかにおのれがためにこそ
 深く、美しき木蔭をつくれ。
 われも亦、

 雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
 青みし狼の目を、
 しばし夢みむ。

伊東静雄 詩集『夏花』より

伊東静雄の詩句が映りこんでいる、と私が思う三島由紀夫の表現はさまざまに考察できるが、ここでは『天人五衰』に焦点を絞り、その部分を示す。

引用 ③

道のゆくてを遮る木蔭の一つ一つがあらたかで神秘に思われた。雨になれば、川底のやうになるであらうその道の雑な起伏が、日の當たるところはまるで鑛山の露頭のやうにかがやいて、木蔭におほはれた部分は見るからに涼しげにさざめいている。 ( 中略 ) 
『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ』
本多は極度の現実感を以てさう考へた。

三島由紀夫『天人五衰』より

引用 ④

これといって奇巧のない、閑雅な、明るく開かれた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領してゐる。その他には何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。  
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……

三島由紀夫『天人五衰』より

引用 ⑤

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。
「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・・・・」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々ですさかい」

三島由紀夫『天人五衰』より

なお、『天人五衰』等三島文学が、夏という季節を人生観に絡めて象徴的に用いていることに着目し、上に引用した二編を含み、伊東静雄の詩が影響している論評を、文芸評論家饗場孝男が著していることを書いておかなければならない。
文芸評論家饗場孝男が三島と伊東について指摘している文章を次に引く。

※ 三島の作品『中世』を引き合いに論じた文章の一部

夕焼けの後、彼が突然白昼を迎えた世界とは、一切が不動で無時間な、音さえも聞こえぬ、透明な夏のしづまりに満たされた世界に外ならなかったのである。
この夏のイメージはまた彼の作品の、いわば基本的な物質イメージである。
それは前後の季節と時間から切り離されて凝固し、空間的に彼の感性の構造の重要な部分を構成している。

1972年 河出書房新社刊 饗場孝男『反歴史主義の文学―時間から空間へ』より

したがって「夏」は「死」と不可分となり、つねに一対の存在として三島の世界にあらわれる。彼の希求は芸術のなかに、それを具現することであった。彼の深く愛した、日本浪漫派の詩人伊東静雄の「八月の石にすがりて」という詩は、いわばそうしたありうべき状態の詩的結晶と言うべきものであったろう。
この詩について〈 烈しい夏の陽光の裡に彫琢された絶望は、今日なお私の胸を搏つこと甚だしい 〉(『伊東静雄』昭和二十八年 )と三島はのべずにはいられない。

1979年 有斐閣新書『近代小説の読み方1』( 編著 ) 饗場孝男の三島由紀夫論より部分

それでは、伊東静雄の詩、三島由紀夫の小説、両者の相似感覚を、引用ナンバーを用いて述べる。
伊東静雄🔶 三島由紀夫■ (本文太字 ) 、解釈文に🧵の識別表記を付す。

【その一】

■ 引用③(由紀夫)  「道のゆくてを遮る木蔭の一つ一つがあらたかで神秘に
            思われ た。」
         『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふこ
          とに決まつてゐたのだ』

🔶 引用①(静雄)    「枯枝を張りし一本 ( ひともと ) の 木高き梢 あゝそ
          の上にぞわが母の坐し給ふ見ゆ」
🔶 引用②(静雄)       「見よや、太陽はかしこに わづかにおのれがためにこ
                                     そ 深く、美しき木蔭をつくれ。」

🧵 天啓と言えるような、アニミズム的な感覚が、特筆するようなことでもない、ふだんの暮らしの中の眺めのただ中に降( くだ )って来る。その特異な場面が相似ている。
自己を穏やかに立たしめる精神の在り処を、どこに定めてよいのかたどり着けない不安が、伊東静雄の詩篇、ことに詩集『夏花』には漂っている。
その魂のさまよいの行き着く先が、「わが母の坐し給ふ見ゆ」という詩の結語に示されていよう。
伊東静雄の示す母とは、揺るぎないものの象徴であり、観念に支配されることのない幼年の日々へのまったき信頼である。

三島由紀夫の『豊穣の海』においての物語の引導役である本多が、第一巻『春の雪』に登場し、やがて名刹の門跡となった老いた聡子を、この長編の最終段階で訪ねる参道で、道のほとりの一樹の蔭に唐突に、故もなく光明を見出 ( いだ ) すように描かれているのは、影こそが光の存在を強く証すものである意味から、夏の光への礼讃であると読めて来る。
それは、饗場孝男の論じている《「夏」は「死」と不可分となり、つねに一対の存在として三島の島に世界にあらわれる》という図式ではなく、光の白い眩惑に、観念から解かれた陶酔感が備わっている寓意を示すと感じられる。

つまり、若き日の思い人であったはずの松枝清顕について問う本多に向かい、清顕という人は知らないと聡子が返し、全四巻にわたる『豊穣の海』全編を、いっきょに眩惑に包み込んでしまう場面がもたらす結論は、本多が寺へと続く道の途中で、
「木蔭の一つ一つがあらたかで神秘に思われた」
『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ』
と感じて安寧の境地にひととき佇む描写に、すでにほのめかされ、それとなく予告され、物語の終幕をここに別言していると言える。
そう見れば、聡子の言葉を聞いた本多の心中は、観念から解かれた陶酔感に入れ替わったと私には思えるのである。

【その二】

■ 引用④(由紀夫)  「この庭には何もない。記憶もなければ何もないとこ
            ろへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。  
            庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。」
🔶 引用①(静雄)     「そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた
           わが幼時の思ひ出の取縋る術もないほどに端然と
           ……。」
🔶 引用②(静雄)    「わが運命を知りしのち、たれかよくこの烈しき
            夏の陽光のなかに生きむ。」

🧵  三島は、李賀・字は長吉の漢詩の詩句
「 長安に男児有り 二十にして心已に朽ちたり」
を好み、揮毫も残している。その思いは、汲めど尽きぬと言っていい己の文才に倦怠していたかとも想像される、壮年の三島の心に巣くっていたに違いない。三島には、李賀の言葉は、我がために謳われたもののように感じられただろう。
その詩句はまた、伊東静雄の詩句
「幼時の思ひ出の取縋る術もないほど」
「わが運命を知りしのち、たれかよくこの烈しき 夏の陽光のなかに生きむ。」
に容易に結びつくと言える。
しかし、ここから反転した解釈を述べるのだが、三島は1966年6月(三島由紀夫41歳)の〈「われら」からの遁走〉という一文で、こう言っているのに目が止まる。

最後に、何もかもあやしげになったところへ、やって来るのは本物の楽天主義だ。どんな希望的観測とも縁のない楽観主義だ。私は私が、森の鍛冶屋のように、楽天的であることを心から望む。

1966年 講談社刊「われらの文学5/三島由紀夫」より

上に引用した一文全体の論旨を私なりに解釈すれば、要諦はこういうことだ。
  
  作家が個性を求めてゆけば、往々にして、その先鋭性、特異性や難解さ
  への傾倒ゆえに、読者の理解を阻まれるものだが、文体の力を信ずる作
  家は、読者の容易な理解を拒むかのような文体に、かえって文学の本質
  を見ようとする。
  しかしそれは、美的観念や社会倫理を排除する創作姿勢(オートマティ
  ズム)に陥ることにつながり、その甘い誘惑の犠牲になるだけである。

その先の結論が、上に掲げた「本物の楽天主義、どんな希望的観測とも縁のない楽観主義」を希求する言辞である。
難解な論理を、親しみの薄い漢語を散りばめて述べている巧緻な一文の結語としては、その論理がすべてぬけ落ちてゆくような拍子抜の感があり、生な感情をこぼしたような印象を余韻に引く。それを三島は、本心を韜晦する術として述べたのではなく、確かにそう渇望したのではないだろうか。
そしてその思いは創作上の心のあり方という局面にとどまらず、望むべき生き方として、人生の最後まで、熾火として心奥にあって熱を保ち続けていたと思う。

「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……」という、『天人五衰』の、抱いてきたものを放り出したような印象を与える結末は、「本物の楽天主義」に至ったと読み替え得る描き方だと思う。
それは、最後の文筆を用いて、壮年以来の内心の苦渋を救済する表現と私は考えたい。あるいは迷いからの遊離という言葉がふさわしいかもしれない。
【その1】の解釈で、聡子の言葉を聞いた本多の心中は、観念から解かれた陶酔感に入れ替わったと述べたのは、その意味合いから、整合し得るものだと考える。

【その三】

■ 引用⑤(由紀夫)   「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとす
           れば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今
           ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思わ
           れてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇
           りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自
           分を呼びさまそうと思わず叫んだ。
           「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジ
           ャンもいなかったことになる。・・・・・その上、ひょ
           っとしたら、この私ですらも・・・・・・」
 
🔶 引用②(静雄)   「あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの
           怪しく獣めく御陵の夜鳥の叫びではなかつたの
           だ。
           それは夢の中でさへわたしがうたつてゐた一つの歌
           の悲しみだ。」

 🧵 伊東静雄の詩で、鳥の飛翔の姿や生き物たちの様子に目が止まること
    がある。
          「遠く消え去った彼の幼時が もっと多くの七面鳥や 蛇や 雀や  地      虫や いろんな種類の家畜や 数へ切れない植物・気候のなかに過
     ぎたからであった」(「鷺」部分 )
   「鵲の飛翔の道は ゆるやかにその方角をさだめられたり」(「夏の嘆
     き」部分 )
           「窓の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽の燕ぞ鳴
     く」(「燕」部分 ) 
    
     伊東静雄に限らずあまたの詩人にとって、幼少期の、汎神的な感覚
     での自然との交接が、後年の創作の核になると私は思う。彼に創作
             の動機として本来あったのは、幼い目に映った抒情の結晶化であろ
     う。
     しかしそれをなし得ない現実が、「夢の中でさへわたしがうたつて
     ゐた一つの歌の悲しみ」という表現になっているのではないだろう
             か。
             彼の生きた壮年期  ( 詩集『夏花』の詩篇は、三十一歳から三十四歳
             頃 )が、昭和十年代前半であり、戦争へと傾いてゆく重い空気が社会
             を包んでいたのであろうし、そういう時代情勢と無縁ではあり得な
     いだろう。
    
            「一つの歌の悲しみ」から連想するのは、伊東静雄の第一詩集のタイ
             トル『わがひとに与ふる哀歌』である。詩集のタイトルとなった詩
            「わがひとに与ふる哀歌」を読むと、こういう詩行があるのが目に止
              まる。

            「輝くこの日光の中に忍び込んでゐる 音なき空虚」

              さらに同詩集に収まる一編「いかなれば」の詩行にはこうある。

            「いかなれば今歳の盛夏のかがやきのうちにありて、なほきみが
              魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。」

              私は、聡子の言葉を聞いた本多の心中に、この詩行が、重なってく
              るような気がする。自分の生きた歳月さえ否定されているような虚
              脱に襲われながら、やはり、今この場の激しい虚脱ゆえになおさ
      ら、「昨年 ( こぞ ) の夏の日のひかりのみあざやかな」というべき
              思いを蘇らせて、松枝清顕の転生という命題に呪縛されて生きた歳
              月を、しんと静まる庭に本多は見つめていると私には感じられる。
         
     『天人五衰』の「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てし
    まつた」という行のあとに、私は書かれなった一行を読む。
              その一行は、「きみが」を「わが」と置き換えて、上に引いた伊東
              静雄の詩の一行そのままである。
       
              されど、「なほ ( わが ) 魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかな
     る。」

                            令和6年11月        瀬戸風  凪
                                                                                                    setokaze nagi

   
            


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