青木繁が発表した浪漫主義絵画は、エピソードとして伝わると、天馬空を往くという形容が浮かんで来るような豪胆な人物像があいまって、生存中から詩人文人など文学者たちの関心を引き、没後にかけて何人もが青木繁やその作品についての文章を出している。
今回は、著名な文人たちが書いた青木像に目を向けてみる。
🎀 竹久夢二 時代社 1940(昭和15)年「砂がき/私が歩いて來た道ー及びその頃の仲間」より
夢二は明治17年生まれ。上の文章中の第一回文展は明治40年である。藤島武二氏の「不忍池畔納涼圖」とは、下の図版の絵ではないだろうか。それだと明治31年になり、夢二はまだ、岡山県邑久郡の生家にいて少年時代のはずだが。後年どこかで見た記憶が混じっているのか、あるいは画集で見た記憶も入っているのか。
「あんな感覺も表情もない畫」の例として、「利根川の上流をかいたべらぼうに大きな畫」は解明できなかったが、「變な顏の赤白い女が花の前に立つてゐる畫」と述べられている当時評判の絵とは、下の図版の岡田三郎助の作品のことだろうか。そうだとすると、夢二の求める美が、写実という方向には向いていないのがよく見えて来る。
「わだつみのいろこの宮」に感心した理由にもつながっている。
青木繁の「わだつみのいろこの宮」に雰囲気の近い夢二の絵を並べてみる。
🎀 「小熊秀雄全集-19-美術論・画論」(熊谷守一の談話)より
小熊秀雄は明治34年生まれの詩人、小説家、絵も描いた。よって、明治44年に没した青木を直接知る機会はなかった。以下の文章は、聞き書きである。一群の画家たちが寄り集まった池袋モンパルナスと称される芸術的結びつきの中にあり、その中心人物であり先導者だった。
その中には青木と直接接し、その素顔をよく知る熊谷守一 ( 美術学校同期 ) がいて、以下の文章は彼から聞いた青木の話を書いている。引用はやや長くなるが、これほどまざまざと青木繁の人間像を伝えている文章はないので、ぜひ一読してほしい。
青木が樹下夫人の絵「秋声」を出品した1908 ( 明治41 ) 年第三回文展に、熊谷守一が出品したのが下の絵「蝋燭」。両人とも落選した。
「私はその頃アカデミツクな手法でかいてゐたが」と語っている当時の熊谷守一の作品。
🎀 児玉花外 明治45年5月春陽堂刊「哀花熱花」所収「図書館の日」より
児玉花外は詩人、明治7年生まれ、昭和18年没70歳。青木より8歳年長。詩集に『社会主義詩集』『花外詩集』など。明治35年には蒲原有明、岩野泡鳴、与謝野鉄幹ら、青木と交わった詩人たちと朗読会を組織すなるなどしており、彼らからの側聞によって青木の画業は知っていたのだろう。
彼らが青木を称賛した気分が、児玉花外にも感染していたことを思わせる文章である。
愛沢伸雄氏(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)の「青木繁《海の幸》誕生と日露戦争の時代 3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる (3)石井家の人びと 」というネットコラムに、ユニテリアン( 自由キリスト教徒 )として青木をキリスト教に導いたと見られている久留米出身のユニヴァサリスト教会牧師赤司繁太郎に、青木と同様洗礼を受けた人として日箇原繁という人がおり、その人が児玉花外と親しかったことが書かれている。花外はこの日箇原繁を通して、間接的に青木のことを聞いていたとも考えられる。
令和5年12月 瀬戸風 凪
setokaze nagi